1. 自分を幸せと思える瞬間  他人から不幸な女と思われる瞬間

斎藤薫の美容自身2

2015.09.09

自分を幸せと思える瞬間  他人から不幸な女と思われる瞬間

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 今月のテーマは幸せそうな女と不幸せそうな女について。毎月第2水曜日更新。

自分を幸せと思える瞬間 
他人から不幸な女と思われる瞬間
石井 亜樹
VOCE編集長
by 石井 亜樹

幸せそうな女と不幸せそうな女はアッという間に逆転してしまう。

 女同士、初対面の時から反射的に探ってしまうのが、「相手は幸せかどうか?」ということだったりする。もちろん、相手はどんな性格なのか、自分のことを好きかどうかも、当然のこととして見極めようとするのだろう。でもそれと同時に、ほとんど本能的に知りたいと思うのが、「その人が、幸せかどうか?」。

 何度も繰り返し語ってきたことだが、女はあくまで“幸せになるために生まれてきた性”。普通に考えれば、不幸感を持っている人には、まさに本能であまり近づきたくないはずなのだ。とは言え、不幸な者同士がなんとなく引きつけ合うのもよくあること。ましてや人間には、“自分より不幸な人”と一緒にいることで、“自らの幸せ”を確認したいという心理もどこかに潜んでる。どちらにしても幸せか不幸せかの駆け引きが、瞬時に行われるのは確かなのである。

 そもそもが幸せの定義はまったくもって曖昧で、比較によってしか認識できないものだから、人付き合いにはそういう駆け引きがつきものなのである。でもだから、幸不幸の大逆転が起こり得ることを覚えていなければならない。

 日本では『私がクマにキレた理由』という不思議なタイトルで公開されたが、原作は『ティファニーで子育てを』というベストセラー小説、という作品がある。ヒロインはスカーレット・ヨハンソン扮するナニー(ベビーシッターのこと)。大学では人類学を学び、“就活”ではゴールドマン・サックスを受けるほどのエリート。しかし面接でミスを犯して不合格となり、途端に「自分は一体何者なのか?」「一体、何がしたいのか?」……そんなふうに自分の未来の姿が見えなくて、立ち止まってしまう。結局、親の期待を裏切り、成り行きで典型的なNYセレブ家庭でベビーシッターをやることになるのだ。

 そこでいきなり“勝ち組と負け組”の、わかりやすい対比が浮き彫りになるわけだが、案の定、子供は粗暴なマセガキで、こちらはすぐに手なずけたものの、母親のセレブ妻は何かにつけて“使用人”であるナニーに辛く当たる。明らかに八つ当たり。だから可哀相なはずのナニーは、こうつぶやくのだ。「あんなにすべてを持っているのに、奥様はなぜこんなに不幸そうなの?」

 もちろん贅沢な暮らしに美貌に知性、有能な夫に可愛い子供。傍目には非の打ち所がなく幸せそう。いや幸せそうに振る舞ってはいたが、実際のところ“夫に関心を持たれない妻”は、常に怒っていた。喧嘩が絶えなかった。子供への愛情すらおろそかになるほど。

 すべてを持っているからこそ、それが逆に悪循環のもとになる。逆に、何も持っていない、自分さえ持っていないから、アルバイトをして“自分探し”をやっていた女は、空っぽの心の中に“大事な気づき”を刻み込んでいく。もちろんそれが幸せの形なのかどうかはわからないが、挫折した女も、少なくとも雇い主のセレブ妻よりは、はるかに幸せと思ったはずで、だから女同士は、いつもどこかで幸せと幸せの駆け引きをしていて、まさかの逆転も起こりうる。

 いや、この物語が教えてくれたのは、幸せそうな人と不幸そうな人の幸不幸は、じつはアッという間に逆転する可能性を 孕んでいること。見方を変えたただけで、簡単に逆転すること。もっと深いところには、“幸せそうに見える人ほど不幸”という、悲しい現実が横たわっている。さらにそこには幸せにまつわるもっともっと重要な真実が隠れていて、それは「本当に幸せな人は幸せかどうかは問わないし、幸せであることにこだわらない。自分が幸せである事に、もともと関心がない」ということ。つまり、幸せの駆け引きや幸せの比較をすること自体、あまり幸せなこととは言えないのかもしれない。

 だいたいが、のべつまくなし幸せな人なんて、本当にいるんだろうか? どんな人にだって心が憂えることはあるし、何もかもがうまく行くなんてありえない。結局は、幸せという概念そのものを忘れてしまうのが、いちばんなのだ。

すべて順調と思った瞬間、悪いことが必ず起きる不思議

 そう思うもうひとつの理由は、これはあくまで自分の経験からだけれども、「なんだかすべてが順調だなぁ」と思うと、翌日か翌々日に必ず困ったことが起きる。そういうことは、一度や二度じゃない。すべてが上手くいってると思うと、もう必ずと言っていいほど“良くないこと”が起きるから、正直言ってそう思うことが怖くなった。すべてが順調なんて、一瞬たりともって思っていけないのだと意識するようになった。自分には“順調”なんてないのだって自らを律するようになる。おそらくすべてが順調と思う時には、「私ってひょっとしたら人より幸せかも」という慢心があったかもしれないから。

 いや、幸せと思うこと自体が悪いのじゃなく、“すべて順調=幸せ”と2つを結びつけるからいけないのだろう。むしろ辛いことも多いし、上手く行かないこともあるけれど、でも幸せ……そう思えるようになると、幸せは幸せを呼ぶようになるのだ。そう、大切のは、ネガティブがあっても幸せと思えること……。全然順調じゃなくても、家族みんなが健康で、友達もいて、犬もいて、笑いあっている瞬間、これが私の幸せなんだって思えるようになったのだ。

 人間関係においても同じで、“すべてを持っている恵まれた人”ではない、ネガティブが結構ありそうな人なのに、いつも見るからに幸せそうな人こそ、ちゃんと幸せに見える人。逆に言えば、何もかも持っている上に、「私はシアワセな女」と口にしたり、自分は幸せであることをアピールする人が、なんだかちょっとイタいのは、“幸せであること”のアピールは、不幸な人しかしないから。幸せでないのに幸せなふりをするほど、痛々しいことは無いからである。見るからに不幸そうに見えて、本当に不幸な人よりも、よほど不幸せに見えるのは、多分そういう人なのである。

 誤解しないでほしいのは、“幸せそうに見えること”と“幸せのふりをすること”とはまったく違う。幸せそうに見える人は、多分、自分が幸せかどうかをあまり意識していない。ただ、誰に会っても嬉しそうにニコニコしている。もっと言えば、嫌なことを言われたり頼まれたりしても、まだニコニコしていられる。それって単に、“いい人”なだけじゃない。基本的に心自体が幸せだから、心がヘタっても削られても、まだ“にこやか”になれるゆとりが残っている。言いかえれば幸せとは現象ではなく、その人の心の質や、心の向きなのである。

 そういう意味で、幸せと不幸せの使い方を改めて整理してみた。幸せは、辛いことが起きた時に、「でも、しばらくしたら立ち直れるんだから、私はちゃんと幸せ」と思う瞬間にだけ、幸福を使う。そしてまた、いつも怒っていて、わけもなく人に当たったり、意地悪したり、理不尽なことを言ったり……そういう人と遭遇した時、決してそういう人とは戦わず、「きっと彼女は不幸なんだわ」と思って自分を納得させる瞬間にだけ、不幸を使う。だから、不幸そうな人にはなるべく近づかないようにするという心がけの時にだけ、不幸を使うのだ。

 幸せと不幸せって、それ以上のものでも、それ以下のものでもないような気がする。まさに、それ以外の時は、幸せかどうかなど問わない。そこに、人の“本当の幸せ”がある気がしてならないのだ。

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石井 亜樹
石井 亜樹
VOCE編集長。スキンケアはたっぷり使うことでズボラを補おうとする乾燥肌。若い時はそばかすだったものがシミに変わってきてるのが悩みなので、美白は年中。ファンデはリキッド一辺倒だったが、ゴルフを始めてパウダリーにも目覚め、顔のUV対策には人一倍気を使う。趣味は落語と箱根駅伝。

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