1. 「痛々しい」から同情を抜いたのが「痛い」。 だからいちばん言われたくない言葉

斎藤薫の美容自身2

2015.01.23

「痛々しい」から同情を抜いたのが「痛い」。 だからいちばん言われたくない言葉

あらためて考える。イタイ女とイタくない女の境界線

「痛々しい」から同情を抜いたのが「痛い」。 だからいちばん言われたくない言葉

どんなにまともに生きている人も、世間からは”いろいろ” 言われてると思ったほうが無難。悪口じゃなくても”あの人、 頑張り過ぎじゃない?”的な、余計なお世話な感想を、どこか しらで囁かれているくらいは覚悟しておくべきなのだ。

でもそういう場面で、いちばん言われたくないのは「痛い」という言葉なのじゃないか。”ハタ目に正視できないほど可哀そう”という意味の「痛々しい」から、”同情”を抜いてしまったのが、「痛い」。しかも噂している本人は何の迷惑も被っていないのが特徴の、蔑みの形容詞。それこそ、放っておいてよという種類の話だが、耳に入ったら、”普通の悪口”のほうがまだましと思うほど、聞きたくない言葉だったりするはずなのだ。

なぜだかわかるだろうか。「痛い」と言われる女のほとんどはまとも。本来がまともな女なのに、ある一線を越えてしまう から「痛い」と言われる。もっと間違ってる女は「痛い」というレベルじゃすまされないから。そしてそもそもが”まとも”だから「痛い」と言われることが辛いし許せないのである。

そして”痛い女”と言われるいちばんの要因は、やはり”やり過ぎる”ことであり、自らのアピールに必死な人。婚活に血まなこな人。若づくりの度が過ぎる人も元気過ぎる人も個性的過 ぎる人も、要は程度を超えると痛くなる。

でもその一方で、人間”一生懸命”な人には敵わないと、どこかでわかっている。必死で頑張る人には拍手を送るという価値観を持っている。”可哀想”と思うか、”敵わない”と思うか、じつは紙一重なのに真逆の反応をもたらす境界線はどこにあるのか。

ひとつには、自分の能力やキャパをわかっているか否か。フィギュアの羽生クンが競技の直前ケガを負った時、バンソウコウに血を滲ませ頭にぐるぐる包帯を巻いてまで競技したのは、 涙なしには見られないほど痛々しかったが、痛くない。彼にはたぶん、どこまで跳べてどこまでは跳べないか分かっていたはずで、3位までには滑りこむこともたぶん分かっていたから強行した。つまり客観性ある判断ができる人だから、日本人全員がこの19歳の信じ難い頑張りには”敵わない”と思った。

「痛々しい」から同情を抜いたのが「痛い」。だから一番言われたくない言葉

いくら頑張っても、結果を出せる人は痛くないのだ。パーテ ィで名刺を配りまくって自分を売りこむ人も、何のレスポンス もなければ”痛い”が、名刺交換だけで強烈な存在感を残して 仕事を増やしていく人には”敵わない”。ハッキリ言えば、意味のない頑張りを見るのが世間は嫌いで、結果の出るやり過ぎ には拍手を送るのである。ただ本人に「ダメかもしれないけれど、やるだけやってみたい」という客観性があれば、まったく痛くならない。自分が見えていない人が痛いのだ。

一方”前向き”なこと自体は少しも悪くないのに、前向き過ぎる人を”痛い”と思うことがあるのは、自分が前向きであることをことさらにアピールして周囲に元気を押し売りする、けっこう面倒くさいタイプに見えるから。自分が何者かわかっていないのに、「自分は”こういう女”なの」と決めつける。そこに ”痛み”を感じるのだ。「私って、男みたいにサバサバしてて……」 というそばから、まったりした女っぽい陰口を聞くことが痛いし、「私ほど幸せな女はいない」と言うそばから、自分より恵まれている人へのやっかみが次々出てくることが痛いし、「私って本当にダメダメで失敗ばかりで」と言っているそばから、ミスを指摘されると怒り出すようなプライドの高さも痛い。

自分を知らないのは、まだいい。知らないくせに間違った決めつけを信じこんでいるのがバツなのだ。間違っている人ほど それを周囲にアピールしたがるから、もっとバツ。いつも不満や愚痴ばかり口にして、自分がいかに辛い立場に置かれているかを訴えている女も、まるで自分を自分で痛めつけているようで痛い。自慢話同様、痛みを執拗にアピールする痛さもあるのだ。

"痛い女"になるリスクは歳を重ねるごとに増えていく

ただしここまで語ってきた”痛い女”は、痛みをあまり感じていない。感じないからもっと危険を犯し、だから周囲の心が痛むのだ。

逆に痛い女でも自らが相当ヒリヒリと痛んでいるからこそ、他者にもその痛みが伝わっていってしまうタイプがいる。おそらく痛みを感じていないタイプは、自らが”痛い女”だなんて夢にも思わず、むしろ幸せに生きていくのだろうから、生涯知らずに生きていったほうがいいはずだが、自ら痛みをズキズキ感じながら生きている人は、”痛い女”とどこかで言われていることも、そう言われる意味もわかっていて、それ自体がズキズキするから、早いとこそこから脱しないと危ない。

ところがある年齢からは、しがみつくから痛くなる女が一気に増える。映画『ブラック・スワン』ではプリマの交代劇で、ウィノナ・ライダー扮するかつてのプリマが、降ろされたことを恨んで憎んで狂気に走る……という妄想を、新しくプリマの座を射止めたナタリー・ポートマン演じるヒロインが抱いてしまう。自分も彼女のように”恐ろしく痛い女”になり果てるのかもという恐怖心から、そういう幻想を見るのだ。

いつかどこかで自分も席を譲らず”しがみつく”かもしれないというぼんやりした不安は、たぶん誰の心の中にも潜んでいる闇。自分に限って、そんなふうにしがみつくなどあり得ない と思っていても、一度得たものは簡単には手渡したくないと思うのが人情。そう考えると、キャリアを積む過程で誰もが”痛い女”になる可能性を持っているのだ。

たとえば非の打ちどころのない美人女優、なのに何をしても支持が得られないから、だんだん肌の露出を増やしてしまう様子を世間は痛いという。でもそれも、この人の辛さが一部自分たちにもわかってしまうから痛いのである。”同情抜き”だとしても、その人の痛みがわかるから。そうなってしまう事情が見え隠れするから、世間で可哀想な女と位置づけられるのだ。

歳を重ねるほどそういう同情なき同情の材料を提供しやすくなるのは言うまでもないこと。考えてみれば、やり過ぎてしまうのも、自分が見えなくなるのも、”自分はこういう女”と間違った決めつけを世間にアピールするのも、むしろ歳をとるにつれ顕著になっていく傾向。痛くなるか否か、女は年齢を重ねた時にこそその岐路に立たされるのだ。だからこそその時までに、痛くならないための客観性やバランス感覚を積み重ねておかないと。しがみつかないだけの自信や徳や潔さを積み重ねておかないと。本来は歳をとった分だけ、まったく可哀想じゃない、大らかでゆとりある女になっておくべきなのだから。

でも困ったことに歳とともにどこかが必ず痛ましくなっていくのが人間。だからむしろ、大切なのはこれから。痛い女になるか否か、その分かれ道はむしろ今から始まるのだ。



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