1. 【齋藤薫の美容自身】女はなぜ“いい人”にならなければいけないのか?

斎藤薫の美容自身2

2019.05.08

【齋藤薫の美容自身】女はなぜ“いい人”にならなければいけないのか?

人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。 今月のテーマは 「女はなぜ“いい人”にならなければいけないか?」 について。毎月第2水曜日更新。

【齋藤薫の美容自身】女はなぜ“いい人”にならなければいけないのか?

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「嫌いな女」報道にはなぜ世間の関心が高いのか?

 「好きな芸能人、嫌いな芸能人」ランキング……週刊誌にその文字を見つけると、思わず手に取ってしまうのは、ある意味人間の本能だ。そして、好かれている人の名前よりも、嫌われている人の名前を先に見るのも本能。一体どんな女が世間から嫌われるのか、ちゃんと見ておかなければという心理が働く。その結果に共感できると“自分はまとも”と少しホッとし、そして自分のような女は一般社会でもセーフかと思ったりする。おそらく人は皆、自分がどちらに属するのだろうということが、一抹の不安なのである。

 同様に、いわゆるイニシャルトークで「女優のAは、すごく嫌な女だった」的な発言が生まれると、それだけでYahoo!ニュースになったりするくらい、嫌な女、意地悪な女、失礼な女などに対する世間の関心は非常に高い。イニシャルで言われると余計に興味をそそられる、という傾向もあるけれど、やはりこれも世間から嫌われる女の生態をちゃんと把握しておかなければという意識なのだろう。

 さらに言うなら、そこで多くの人が内心期待するのは、ある種のギャップ。一見そうは見えない、キレイで優しそうな女優が、真逆の嫌な女だったりするケースを見たいという、妙な欲求があったりする。そう思うこと自体、ちょっぴり邪悪な心が混じり込んでいる証であり、誰にでも世間からそう思われてしまう可能性が潜んでいる証でもある訳で、どちらにせよ人の心の複雑さを物語る。ただそういうことに関心を持つだけで自らの心の是非を問うことにもなるので“嫌な女報道”はむしろ積極的に見るべきなのだ。

 もちろん名前を挙げられるほうはたまったものではない。ランキングに名前が挙がるのは人生の汚点となってしまうし、イニシャルだけでさえ俎上に載せられるのは不名誉極まりない。でも今の時代、世間は誰かを犠牲にしてまで性格的問題を許さない構え。セクハラ、パワハラ、何も容赦しない時代。そういう時代の空気を私たちも肝に銘じるべきなのだ。性格が悪いだけで、こんなふうに糾弾されてしまう時代だということを。

 いや、一般の社会こそ昔からそうだった。しかもSNSがそれを余計シビアにチェックするツールになっていて、世間はいよいよ人間性の欠点を許さないようになっている。もちろん今は、善人と悪人がきっぱり分かれているような単純な世の中ではない。ましてや女性は社会的に進化し、とんでもなく意地悪だったりヒステリーだったりする女性は、昭和の時代にくらべ劇的に減った。性格的に問題がある人がいると「最近ああいう人は珍しいね」という会話になるくらい。しかし人間の本質は変わらない。攻撃的な言動を表面には出さない社会性をしっかり身に付けた女性たちも、今もどこかにそういうものを秘めていると考えたほうが無難。皮肉なことに人は自分の人間性をあまりよく知らない。知らないから占いに行って「あなたはこういう人」と言ってほしいのだ。うっかりすると自分が善人か悪人かもわからなくなっているほど。

 それこそ最近は、韓流ドラマですら、性格のいいヒロインを意地悪な準主役がいじめるような、わかりやすい勧善懲悪的なストーリーは減ってきて、たかがドラマとはいえ、具体性ある人間関係のプロトタイプに自分を置き換えられなくなってしまったことで、自分がそういう人間分布のどこに位置するのか判断しにくくなっているのは確か。

 にもかかわらず、社会には以前よりも善人と悪人にきっぱり分けての、勧善懲悪的な反応が生まれている訳で、韓国のナッツ姫騒動のように、横暴な言動を許さず、社会的制裁を加えるという新しい道徳の形も生まれている。

 ならば今こそ自分をきちんと“いい人”に持っていかなければ。人間性をこそ磨かなければ。なのに、現実には私たち、そこのところだけ抜け落ちてしまいがち。皆一生懸命“自分を磨いている”のに、人間性は意識的には磨かない。“内面を磨く”という名目でも、人間性のことは忘れてしまっている。一体なぜなのだろう。人の評価を決めるのは、最終的にはやっぱり人間性なのに。

むしろ今「いい人そう」が、何よりも優先される時代

 でも思い出してみてほしい。例えば、新しく入社してきた女性について、まずはこんな会話をする。

「どんな人?」
「いい人そう」
「確かに、とてもいい人」

 大体がそういう話に終始する。いい人かどうかがすべてなのだ。稀に容姿に対する印象が話されたりもするけれど、よほど美しい人でないと話題に上らない。まずはいい人かどうか。だからこそ今、意識して人格を磨こう。エセいい人ではなく、本当の意味でいい人になることは、ある意味の美容であるのは間違いないのだ。いや絶対に美容!

 女優やモデルも、彼女は扱いが難しい、わがままらしい、傲慢らしいと、性格にまつわるネガティブな噂が流れ出すと、これが不思議なくらいに、美しさまでが歪んで見えてくる。人柄が明らかになると、それがダブって見えて、形の見え方も明らかに変わってくる仕組みがあって、だからこそ美しい人ほどいい人でないと、せっかく作った美しさもちゃんと美しく伝わらないのだ。

 それだけじゃない。真性のいい人になったとき、あなたの人生は別の意味でも大きく変わる。もちろん、好感度が高まるのは当然のこと。そういうことではなくて、自分自身が幸せであると自覚できる時間が一気に増えると言いたいのだ。

 性格が悪いと、心の中の不幸が増える。不平不満、怒りや嫉妬、そういうものが邪魔をして幸せを実感する瞬間が極端に減る。でも多くの人がそこに気づいていない。真性いい人になった時、びっくりするほど、どんなことでも幸せに感じられるということを。

 なんだか、子どもの頃に読まされた『小公女』とか『赤毛のアン』みたいだけれど、あそこには、冒しがたい真実がしっかりと描かれていたことになる。小公女の法則がなかなか見応えのある美しい映画『リトル・プリンセス』という作品になっているので、いっそあの頃のピュアな気持ちに戻って、その法則に身を委ねてみてほしい。いい人になると逆境も耐えられる。そしてすべての物事が好転する。

「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんなふうに区別するのはばかげたこと。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかなのだから」オスカー・ワイルドの言葉である。確かにそうなのかもしれない。魅力さえあれば、悪女だろうが毒婦だろうが、人を惹きつけることはできるし、今時、いい人と悪い人が極端な形で混在している『3年A組』の教師のほうが、リアリティーを持ってくるのかもしれない。実際、男の場合は“有吉弘行→坂上忍”のラインのように、毒舌でブレイクした人たちも、結果として正義感強め。清濁併せ呑むスタイルが受けていて、ビートたけし以降、“悪人善人”のような、男の主張が世の中に必要なことはわかっていた。

 でも女の場合は別。世間の評価はやっぱり善人女に集中する。人が人を評価する全員評論家時代だからこそ、心がキレイな分だけ見た目もキレイに見える。もうこれは動かしがたい事実なのだ。さらには幸せが実感できずに悶々としている人はぜひ、小公女の法則を見直したい。自分の心の中の汚れの量だけ、精神的な幸福感が減っていく、これだけは間違いないのだから。もう一度本気で、真性いい人へと、自分を磨きたい。

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撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳