1. 【齋藤薫の美容自身】「ちやほや」される女の、天国と地獄

斎藤薫の美容自身2

2020.01.08

【齋藤薫の美容自身】「ちやほや」される女の、天国と地獄

【齋藤薫の美容自身】「ちやほや」される女の、天国と地獄

人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。今月のテーマは“「ちやほや」される女の、天国と地獄”について。毎月第2水曜日更新。

どこかで必ず、梯子を外される。「蝶よ花よ」の残酷物語

美人は得……これはやっぱり地球の摂理の一つであり、時代の価値観がどう変わろうとそれだけは変わらない。しかし、美人は得だけれど、なんだか不幸……それもまた、動かしがたい事実なのである。

近年は、ミスコン自体が大した影響力を持たないから、さすがにその法則も崩れたけれど、美人コンテストの優勝者は幸せになれないという、ちょっと悲しい法則があった。「美人薄命」はもちろんもう全く時代錯誤、むしろミスコンなどに出てくる美人はちゃんと人生に前向きで貪欲、だからとてもエネルギッシュなはずなのに、美しいがゆえに運命に翻弄されて、たくさん得をしている反面、気がついたら幸せのチャンスを逃していたという形になりがちだ。ましてや、美貌を最大限に人生に利用しようとする美人は、なおさら幸せを逃しがちなのである。

そういう意味からも、先ごろ各種メディアを騒がせた女優の逮捕……真偽のほどは別として、そこで改めて美貌と運命の関わりについて考えさせられた人は多いと思う。まず、美人もいろいろだから一緒くたには語れないが、運命を大きく分かつという意味で、美人はざっくり2タイプに分けられる。美しいことに対する自覚があまりなく、だから美人のメリットにも気づかずに、なんだか静かに淡々と生きていくタイプと、美しいことを最大限利用して積極果敢に、ある意味狡猾に生きていくタイプとが。逮捕女優は、後者の典型的なタイプだった。

後者の美人は、確かにいろいろな場面で得をする。その気になれば、人生いくらでも得ができる。単純に、美味しいものをご馳走になる確率も、また高価なものを贈られる確率も、3倍から5倍、いやそれ以上になるのかもしれない。

そして何より一番大きいのが、何かと「ちやほや」されること。説明するまでもないが、“おだてるなどして機嫌をとり、甘やかすさま”……これは、決して理性的な言動ではない。だからこそ、された方は勝ち誇った気持ちになれるという仕組み。

その語源は、枕草子の昔からさまざまな作家に歌われてきた「蝶よ花よ(蝶や花や)」という言葉にあったとされるが、もともとは“心華やぎウキウキと浮かれる幸せ”を「蝶や花や」と表現したが、それがいつの間にか、“かよわき美しいものを必要以上に大切に慈しみ、誰よりも幸せに導く”という意味になる。“十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ……” と『たけくらべ』にも書かれたように、とりわけ女の子を盲目的に可愛がり、別格の幸せに導くという意味に。そうした成り立ちからも、蝶よ花よとちやほやされるのは、された人でないとわからない、この上ない至福なのである。

でもそれが、常軌を逸した幸福感をもたらすものであるほど、一方で残酷だ。親が女の子を成人間近までちやほやと育てれば、当然鼻持ちならないわがままな大人が出来上がり、結果として社会に出れば苦労する。そういう仕組みゆえの残酷。そして、女もみな充分若いうちは薄っぺらい男たちにちやほやされるが、それも即刻終わる。でも美人は大人になっても、ちやほやされ続けるから得なわけだが、それもいつかは終わる。案外あっけなく。この蝶よ花よは、本人にその自覚がなくても大なり小なり人間を傲慢にし、いよいよ尊大になった頃、梯子を外されるのだ。気づいたときには、甘えだけが残っていたりするからの残酷物語。

今どきは女もさすがに進化して、世間に多少ちやほやされても甘んじない、真っ当な精神性を持つ美人が多数派となったが、度を越してちやほやされると、人間のサガとして不遜になり、すると世間はさらにへりくだってご機嫌をとり、美人をさらに居丈高にし、周囲はいよいよ腫れ物に触るようになる悪循環。その手の美人は結果、モンスターとなっていく。

でも、そういうモンスターに対しての媚び諂へつらいもやがて終わる。美しさに翳りが見えたり、評価が落ちれば、手のひらを返したように世間は態度を変える。見下された復讐のように。だから美人は、得した分だけ不幸なのである。

とはいえ「あの人」は、そのまま消えてはいかないのだろう。多分復活を遂げるのだろう。これまでも、危ないほどの不遜と、しおらしい涙を繰り返してきたが、それこそ美人の役得で、改悛の情を見せれば何度だって許される。あの人は、ちやほやされて調子に乗って、そのまま終わってしまうような単細胞的な美人ではない。きっと猛省する自分の姿を見せつけるはずで、そこは実力派女優の面目躍如たる賭け。そこで世間はまんまと翻弄されてまた許し、やがてまた、へりくだる? 抜け目のない知恵ある美人は、どこまで許されるのか、相手の許容範囲を試しつつ探りながら巧みに立ち回れるから、結局許されてしまうのだ。ただならぬ美人はそこまで得なのである。

ただやっぱり美しさが翳れば、そうした関係もあっさり終わる。その時までに、個人的な幸せを用意しておかなければ、人生の前半に比べ、後半は物寂しいものになる。どちらにせよ波瀾万丈。大美人は、幸せな分、ド不幸なのだ。

生涯「ちやほや」される奇跡は、一体どこから来るのだろう

でも、極めて稀に生涯ちやほやされる人がいる。もちろん権力や財力を持てば、それだけで生涯媚び諂われる可能性はあるが、そういう意味ではなく、あくまで女性としての魅力で年老いても尚、ちゃんと男性からちやほやされ続ける奇跡はあって、先ごろ亡くなった八千草薫さんは、まさにその奇跡を起こした人だった。

宝塚の娘役から、女優として晩年まで活躍し続けた人。愛くるしい顔立ちのまま歳を取られたことも奇跡だけれど、初々しいまでのフレッシュな品格というものを生涯持ち続けたことが何より大きい。ゆったりと丁寧に美しい声で言葉を紡ぐ、それだけでなんだか若い男性までもが、その人を異性として意識した。若い頃の美しさ可憐さなど知らない世代の男性もが、その人と向き合うと「かすかな緊張を覚える」と証言したほどに。

もちろんこの人は、度を越してちやほやされ続けたが、不幸にはならなかった。美人の自覚はあるだろうが、美人の甘えはない。何の驕りも計算もなく、ただありのままで美しい。その年齢なりにシワが刻まれていても、女性らしさ愛らしさ、そして優しさ穏やかさ、それらが作るふんわりとした甘やかさを持っているから、誰もが気がつくと「蝶よ花よ」となっている。とても自然にこの人を賛美する。それでもおそらく、これまで一度もそこに甘えることがなかったからこそ、生涯ちやほやされ続けたのだろう。

どんなにちやほやされても、自分を一切見失わずに生きてきた。そのことに対するご褒美なのかもしれない。

ちなみにこの人は、長年の不倫の末、親子ほど歳の離れた映画監督と結婚、おしどり夫婦として添い遂げたが、それだけ見ても得する気持ちはなかった人。

でも逆にこの人が教えてくれるのは、別に美人だけがちやほやされるのではないということ。どこか清らかな印象が全身に行き届き、誰に対しても優しく穏やかに接している聖母マリアのような気配を持っている人は、それだけで一生ちやほやされる。一生幸せでいられる。世の中そういう構造であるのを身をもって証明した人生なのではないかと思う。

少なくともこういう人は、生涯「おばさん」と呼ばれない。「おばあさん」とも呼ばれない。別格の女性としてどこへ行っても大切に大切に扱われ、良きに取り計らわれる。それこそ、本当の意味で「美人は得」を地で行く人生と言えるのではないだろうか。だからたとえ美人に生まれなかったとしても、世間に愛される女になることは可能。そういう人が一番得。一回きりの人生において、絶世の美女よりも、何倍も得なのである。

格言

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

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