
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
女は最低、意地悪でなければ何とかなる、なんて言われる。気が強くても多少わがままでもいいが、意地悪だけはいけないと。“人に嫌われるから”じゃない。同情を買うほど、損だからである。
子供の頃に読んだお伽話や“少女小説”は、どれも性悪女が出てきてヒロインをいじめないと話が始まらない。当時は、意地悪を心から憎み、ヒロインの幸せだけを必死で願ったものだが、少し大人になってから「彼女はその後どうなったのだろ?」とふと気掛かりになるのは、いつも性悪女の方。シンデレラの2人の姉や、“少公女”セーラをいじめた先生たち。おそらく、この世にあんなわかりやすい意地悪女はいないし、笑っちゃうほど意地悪だから、かえって哀れをさそい、人生の機微が小指の先ほどわかるようになると、“悲しすぎる女”への同情が芽ばえるためだろう。
なぜそんなに悲しいか。意地悪女は、いじめられる女を輝かせるためだけに存在する、究極の引きたて役だからで、これはお伽話の中だけじゃない、現実のどんな小さな意地悪も、どんな人目を避けた意地悪も、その役まわりにはまったく変わりがないからである。「ほんと、あなたぐらい素顔が違う人もいないわよ」みんなの前でそう言われたら、あなたは悲しい。
でも、あなたが仮にカベみたいな化粧をしていても、まわりはあなたの素顔を「どんななの?」と一瞬想像しちゃいながらも、イヤそんなことより問題にすべきは相手の方の性根の悪さ……と思い直す。そこは、登場人物がいじめる人といじめられる人の2名しかいない物語の舞台と化し、観客は昔のお伽話を読んだ時の心になって、いじめる女を憎み、いじめられる女を愛すのだ。いかなる場合も、意地悪女は沈み、いじめられる女はヒロインとして持ち上がる。その単純な図式は、お伽話も現実も、何ら変わらないのである。仮に観客が見ていない時に誰かにいじめられても、この図式を思い出せばあなたはヒロイン、悲しくない。問題は、自分が意地悪な方だった時である。
意地悪な女は、負けん気が強いのに、コンプレックスも強い女。しかし意地悪はひとりじゃできないから、その負けん気とコンプレックスを両方同時に刺激する相手をさがす。つまり、意地悪な女の落とし穴は、自分より劣っているはずなのに、じつはどこかで自分より優れてもいる相手を無意識に選んでしまうところにあるわけだ。結果的に、相手の優れているところを浮き彫りにするだけ。いじめられるがままになる何の取り柄もない女にすら、負けてしまうのである。
男社会では“社内いじめ”が深刻化しているというが、男の場合はなぜか意地悪な方が勝って終わり……ということが多い。なぜだかわかるだろうか。女の意地悪には、十中八九、“美が絡む”。相手の美しさをねたんだ意地悪から、相手より美しいがゆえの意地悪(ありそうでないけどね)、そして意地悪するほど女はブスになるという事実まで、動機から結果にまで“美”がついてまわる。つまり女の意地悪は“醜さ”だけを浮き彫りにするから、この世でいちばん哀れにうつり、同情を呼ぶのである。どんな小さな意地悪でも、結果は一緒……ね、悲しいでしょ?
もともと“意地悪”は女のもの。なぜなら、必ず“美”が絡む
男の嫉妬や男の意地悪の方が、じつはもっと陰湿……なんてよく言われる。なのに、嫉妬深い男も意地悪な男も、社会的な制裁を受けにくい。女の場合は、けっこう痛いめにあうのにさ。その不公平、なぜだかわかるだろうか。嫉妬も意地悪も、シンデレラの昔から、必ず“美”が絡んでいるから女のもの。それによって失うものも、やっぱり“美”だからである。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23