
人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
電車の中などで、走りまわっている他人の子供をしかる女性を、たまに見かける。ここで今どきの親は「ほらっ、こわいオバちゃんに怒られるから、ちゃんと座ってなさい」と言ってしまうから、結果的に立場はない。でも同じ大人として本当はそういうふうにすべきなんじゃないかと、一瞬の負い目を感じる。感じるが、自分にはぜったいに言えない。言えないからこそ、できる人の勇気と正義感をよけいにスゴイと思うのだ。ただ、怒ったあと、この人にはどんな評価が下るのだろう……。問題はそこである。
怒る女……時には美しいが、時には醜い。しかも醜い確率のほうがずっと高い。以前、「テカリのある女の肌をどう思う?」という質問を男性にした時の答えが振るってた。「一生懸命何かをやっていてテカってしまった肌は可愛いと思うが、テカリながら怒っている女の肌はいかにも醜い」怒れる女は肌にも落ち度があってはいけない。怒るのはそのくらいリスキーだということなのだ。
しかし、総裁選のあの騒動の中での田中真紀子氏の怒りは、何だか美しかった。あれだけの早口で「これは在庫セール」だの「骨董品は無用」だのとまくしたてれば、醜く見えるのは当然なのに、庶民感覚で歯に衣きせぬからこちらの“胸がすく”だけでなく、たぶん自民党の男性議員の中にも惚れた人がいるのではないかしらと思うほど、眩しかった。なぜかと考えたが、あれは自分自身のための怒りではないからなのだ。派閥抗争や保身のためではない、あくまで国のための怒りだから、美しいのである。不満をぶつける、浮気をなじる、なじられて逆ギレする……そういう女の怒りは肌が涼し気マットでも醜いが、人のため正義のため平和のために怒る女は、肌がテカっていても結局美しいのだ。
じゃあ、電車の中の怒れる女はどうなのだろう。いつも思うのは、こういう場合の女性たちには美しさと醜さが混ざり合うということ。それはたぶん、自分のための怒りなのか、乗客全員のための怒りなのか、その場ではわからないからなのだろう。中には、イラつきを抑えきれずに眉をしかめたまま子供をしかる女性がいる。子供は泣く。母親は言葉を失う。周囲はヤッタ! と思いながらも、そこに流れるのは非常に重苦しい空気。でも、しかった女性は沈鬱さだけ残して、次の駅で何事もなかったように降りていく……。その怒りは美しいものにはならない。一方、「ボク、電車の中で走ると危ないのよ」と静かに諭し、座席に座った子供を「いい子ね」とほめて満足そうに笑う女性の怒りは、美しい。
女の怒りは、つねに醜さと美しさが背中合わせ。しかも、“醜い怒り”が残していく余韻は、意外なほど長い時間消えない。たとえばオフィスで、自分のために怒りを爆発させてしまった女性には、退職まで“美しい”という評判は戻らない。だから、怒りがこみあげてきたら思い出そう。怒ったあと、美しいのは、他人のための怒りのみ!!
あとで後悔しない怒り。それならば怒るべし
あらゆる感情の吐露は、そのあとでぜったい後悔しないことが何よりのコツ。喜びすぎてあとで落ちこむ人は、喜び方に誤りがある。とりわけ、怒りの吐露は、“後悔しない形”が鉄則。あとに、すがすがしさが残る怒り、それが、ハタ目に美しく、女をぐんぐん伸ばすのだ。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23