
人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
女は几帳面でキレイ好きで、お掃除が好きな生き物……なぜだか昔からそういうことになっている。昔は疑いようもなく“女は家事をする人”だったから、その方が世の中丸くおさまったのはよくわかる。でもその歴史的な思い込みは「あなた女の子なんだから、お部屋をもっとキレイにしときなさい!」という言い方で、母から娘へ継承され、自分たちがキレイ好きであることを、女はわずかも否定しないできた。従って“部屋が片づかない女”は、何となくいつも後ろめたい。女として失格?という不安と、結婚にも差しつかえるのでは?という恐怖に苛まれ、いつもマズイマズイと思って生きている。しばらくは散らかった部屋をながめるだけだが、やがては“女としての後ろめたさ”に負け、決死の覚悟で片づけ始めるのが“片づかない女”なのである。
ところが最近は、後ろめたさもない“散らかす女”が急増。彼女たちは出したものをしまわず、ゴミも捨てず、足の踏み場も身の置き場もない部屋で悠々暮らしているという。不思議なことに、こういう女性ほどオシャレで物持ち。だから散らかし方は並みじゃない。なのに自分だけはキレイというギャップの激しさが特徴である。
美容の第一歩は“部屋がキレイであること”と今まで何度となく訴えてきた。言うまでもなく、自室の美醜は自分にそのまま乗り移るからだが、女を汚くするのは、後ろめたい気持ち。でも“片づかない女”が後ろめたさもないとなると、汚さも乗りうつらないってことになる。なまじ後ろめたさなんか持たない方がいってことか? いや、そんなはずはない。だって、散らかりを片づける瞬間に、美容効果は爆発するものだからである。
いつ行っても、部屋がキレイに片づいているキレイ好きの女性がいて、片づけがヘタな私は、彼女にずっと憧れていた。そこである日こう聞いてみる。「なんでいつも、こんなに片づいているの?」と。すると彼女は言った。「散らかさないからよ」
何でも彼女は、部屋が散らかるのが何よりキライで、以前は“出した物をその場でしまうこと”を心がけていたのだという。なるほどこれは正しい習慣。しかしそのうち、散らかることを恐れて、物を引っぱり出すことをしなくなる。物を出さなきゃ、ぜったい部屋は散らからないわよと彼女は言った。確かに彼女は自分の部屋の中で、本当に最低限のことしかしない。お料理もしなければ、メイクもしない。たぶん物を片づけないといけない行為を極力しなくなってしまったのだろう。散らかることを恐れるあまり……。
この時私は気づいたのだ。だからあらかじめ片づいた部屋にいても何も生まれない。散らかったことへの後ろめたさもなければ、それを片づけた時の喜びもないからだ。散らかってしまうのはいいのだ。たとえば一週間ぶりにお部屋をお掃除し終えた時の、激しい快感を思い出してみてほしい。大きく深呼吸しながら、ぐるりとお部屋を見渡して、私って幸せかもしれないなんて、ひとときの悦楽にひたったりする。あの爽やかな高揚感、あれは他のものでは味わえない。汚い部屋を片づけることが女をキレイにするのである。
たぶん片づけは神さまが女に与えた美の修業。人が生活すれば、部屋は散らかる。生活が充実しているほど散らかりやすいし、女はオシャレなほど外出前の部屋はゴチャゴチャになりやすい。しかしそれに大いに後ろめたさを感じることは美に対する激しい欲求をかき立てる。従って片づけた時の喜びはそのまま美容の達成感となり、散らかし片づけ、散らかし片づけを繰り返すうちに、女は鏡の前では作れないキレイを手に入れることができるのだ。だから大いに散らかそう。そして、キレイのために片づけよう。私もしつこく“片づけは美容の第一歩”と訴え続けることにしよう。
そもそもなぜ、部屋が汚いとブスになるのか?
女の肌は、私たちが考えている以上に鋭い感受性を持っている。フワフワしたやわらかいものに触れると肌も安心して落ちついたバランスを示すが、ゴツゴツした不快なものに触れると、言わば総気立つように、ストレスを形にする。そのくらい、肌の触覚はナイーブなのだ。たぶん女の肌には“視覚”もあって、キレイなものを見ればいつも潤っていられるが、汚いものを見続けると、みるみる不安定になるくらいの意思表示はするのだろう。劣悪な環境に置かれた時、肌がかゆくなる体験をした人もいるはず。肌はお手入れだけでは決まらない。そして湿度温度だけでコンディションが決まるものではないのである。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23