
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
愛されるためには、髪ふり乱して、愛されているかどうかを確認しないことである。
どんな恋愛論も「愛されるより、愛したい」とその結論を締めくくる。でも、多くの女はこう思うんじゃないだろうか?そう言いたいのはヤマヤマよ。でも所詮、相手から愛されなければ、本当の幸せなんてやってこないじゃない?愛してばっかりで、愛されないなんて、悲しいじゃない?と・・・・・・。少なくとも、自分から愛するより、相手から愛される方が、ずっとずっと難しい。恋愛の苦しみは、すべからく“彼に愛されていないかもしれない不安”から始まる。「愛されるより、愛したい」なんて、やっぱりキレイごとじゃないのか?
女はそもそも、愛されたい。「愛してるよ」「愛してるよ」と年がら年じゅう、言ってほしい。愛されないと生きていけないのは女の宿命なのである。ただ、ここでちょっと思い出してほしいことがある。“愛するより、愛されたい”と願うのも、そもそも愛してばかりじゃ自分がかわいそう・・・・・・だったからのはず。与えるばかりじゃ、自分があまりにも惨めだから、愛をもらう女になろう、もともとはそうだったはずなのだ。なのに、愛されよう愛されようと必死になりすぎると、女はかえって自分を見失い、自分を大切にしなくなる。愛されているかどうかを確認するために、自分のことをそっちのけで、彼の行動をすべて知っておこうと躍起になり、時々は彼のメールを盗み見たりする。それが“愛されている女”の姿だろうか。
まず、“愛される女”は美しくなければいけない。髪ふり乱して、愛されているかどうかを確かめまくるなんて、ダメ。美容もオシャレも、もとはと言えば、“愛される女”になるために始めたこと。それをいつまでも忘れないでいよう。でもそれだけですむほど、話は簡単じゃない。どんな美人も、どんなイイ女も、“愛されるにはどうしたらいいの?”とイラだっている。見るからに愛され顔の女ほど、イラだっている。私が愛されないわけはないのに、というプライドをくずされて・・・・・・。
愛されるために必要なのは一体何か?いや、そんな答えはこの世のどこにもないけれど、無理矢理答えを出すなら、こうなるのだろう。40%相手を愛し、30%自分を愛し、20%は第三者を愛し、残りの10%は行く先不明の愛をもつこと・・・・・・。そして、愛されているかどうかの確認をしないこと。
解説しよう。愛されるためには、自分からも愛さなければならないことは、わかるだろう。しかし、愛しすぎてもまた相手の心が離れていきがちなことも、わかるはずだ。だから自分の心を100とするなら、優先順位は一番でも、半分以上はそこにもっていかれないこと。つまり40%だけ恋人のために心を使う。次に自分を愛する心を30%、たとえば「今日はどうしても見たい陶芸展があるから、あなたとは会えないの」などと、自分を磨くための時間を最低3割は取っておきましょうということ。そして20%の第三者への愛、これは親や兄弟、友だちのために使う愛。週末で言えば、月に一回は彼と会わず、親孝行するみたいなことだろうか。最後の10%は、彼にとっては不明な時間。別に浮気に使えと言ってるのじゃないが、自分にとっても未知の時間。未来を見ていたり、時には過去を見ていたり、だから彼にはそれがあなたの神秘性にうつったりもする・・・・・・ざっとこのように、100の心をバランスよく配置する、そういうバランスのとれた女が、すなわち愛される女なんじゃないかと思うわけである。
相手をちゃんと愛してはいるけれど、自分を決して見失わない、家族愛もちゃんと残していて、そして神秘性もちょっぴりある・・・・・・そういう女が相手を惹きつけて離さない、というわけだ。そしてよく見ておいてほしい。そこには“愛されるための策略”に費やす時間は1%もない。女がよく間違えるのは、愛されているかどうかを確認する作業を“相手を愛していること”と、はき違えてしまうこと。それに、自分を磨くことも、大きな意味で魅力的な愛すべき女になる努力には違いないけれど、キレイになることは別にして、特定の男の目によく映るよう工作することではない。相手への愛も、自分への愛も、そっくり“愛されるため”に使い果たし、あげくに家族も顧みなければ、それは“愛されたい願望”ムキ出しの女。
男だって、バカじゃない。ただ愛されたいだけの女に、求められただけの愛を注ぎ込んでいくほど、お人好しじゃない。親が子に、人がペットに注ぐ愛は、“無償の愛”と呼ばれるけれど、愛は一般的には無償ではないから、わざわざ無償の・・・・・・と断り書きをつけるわけで、男女の愛は、無償ではない典型的なもの。であるならば、愛されているかどうかの確認ではなく、まず相手への計算のないピュアな愛をもつこと。でも、それだけじゃあ、つまらない女。その他諸々にもちゃんと振り分けられた、ちょっと多忙な心をもつことなのだ。
するとどうなるか。たぶん、自分が相手に費やす40%の愛よりも、たくさんの愛が戻ってくるだろう。愛するより愛されたい女は、そこできちんと成立する。そもそも愛するより愛されたい女は、自分が相手にバカみたいに夢中になりたくない、ちょっと涼しい顔をして恋愛して、でも彼に強く想われている、そういう自分を目指したいわけで、それならば、40%だけ相手を想う、このバランスが理想的。結果として愛される、それを望むなら、何となく、こういうバランスを意識してみてほしい。
でもここで大切なのは、“愛される工作”をあれこれしないこと以前に、100の数字で表せるほど、たくさんの愛が心の中に満ちあふれている女だっていうこと。愛ある女しか愛されない。愛されたい女は、自分自身を愛することも含めて、100の愛をもつ女、そう言えるのかもしれない。
「愛され顔」とは、愛をちょうだいと訴える顔にあらず
メイクもオシャレも“愛される女”を目指す方向に、今大きく動いているが、そもそも“愛される女”って一体どんな容姿をしているんだろう。考えてみれば、“愛される顔”を作ろうと思うこと自体が、愛に多少とも飢えている証拠なわけだが、大きな矛盾として、世に言う“愛され顔メイク”からは、足りない愛を増やしてちょうだいという欲求がみじんも見えてこない。むしろ、愛をいっぱいにもらっている、愛されている女の幸せをそのままに表現したメイク。
もし、本気で愛されたいと思うなら、アイメイクはもっと誘うようだったり、もっと物欲しそうだったりするはずだし、口紅の色にももっと媚びが入るはず。なのに提案されるのは、言ってみれば“幸せ顔”や“いやし顔”とあまり見分けがつかない。ここから学べるのは、愛される女とは、すでにたっぷり愛されている幸福感を漂わせた女。愛されたい女ほど、心がすっかり満たされた印象を漂わせていないといけないのだ。
恋愛は、いつも皮肉である。愛に飢えていると、なかなか愛を獲得できない。むしろ、恋人のいない日常にもある種の幸福感を感じられた時、恋は向こうからやってくる。“追えば逃げる”は目に見えないところにも成立してしまうのだ。だから、愛されたいならば、まず自分の日常を満足のいくものにするところから始める。何かが足りない欠乏感は、人を遠ざける・・・・・・そう覚えておこう。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23