連載 齋藤薫の美容自身stage2

性格美人は真似しやすい

公開日:2015.04.23

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

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性格ブスを性格美人に変えられるのは哲学書でも聖書でもなく、人。

いわゆる“いい人”が近くにいると、私たちはとりあえず安心する。少なくとも意地悪されたり、立場を脅かされたり、傷つけられたりする恐れはないからだが、その心地よさは相当のもので、仕事や何らかの集まりで“性格ブス”との関わりを避けられない場合に比べたら、まさに天と地、人生の捉え方自体が変わってしまうかもしれない。

子供時代は、関わりをもつ人をある程度自分で選べた。嫌いなやつとは口をきかなきゃいいだけ。“いじめ”につかまらない限り、自分でアレンジできる人間関係にヘトヘトになることはない。しかし社会とは、要するに“嫌いな人とも付き合わなければならない場所”。関わりをもつ人を自分では選べない場所と言っていい。そういう場所で、関わりをもたされる相手が、偶然とても“いい人”だったら、それはかなりの幸運だ。

ただそういう幸運に恵まれた時、人間には2種類あって、相手が“いい人”であることをいいことに、自分勝手を楽々通して、社会というところを一層甘く見ちゃう人と、“いい人”のいいエキスを吸収して、人間性を更生させていく人と・・・・・・。いやもちろん、本来が“いい人”は“いい人”と引き合う性格をもっているから、お互い“いい人”同士なら話は別。ついでに言っておくなら、“いい人同士”は相手に自分との共通点をいくつも見つけて、「あ、私もこういう時こうする。やっぱりそれで正しかったんだ」という具合に、性格の良い人の判断や対応の仕方に、いちいち確信をもっていくから、性格の良さにさらに磨きがかかっていく。いい人同士の関わりは、世の中を一層平和にするんである。

しかし“いい人”とそうでない人との関わりも、社会では成立する。人間がよくできている人、とても大らかな人や、争いごとが嫌いな人、そして多少とも臆病な人も含め、性格美人は、性格ブスとも友だちになれてしまう。中途半端な“いい人”じゃあムリだが、完成度の高い“いい人”なら、本来の自分を変えることなく、性格ブスとも何とか付き合っていけるものなのである。

ただし、性格美人は簡単には感染しない。自然にうつっていくのは、“いい人因子”をもともともっている人に、共鳴という形で伝わっていく場合に限られるのだ。言いかえれば“いい人因子”をもともとあまりもっていない人は、意識して真似する以外、方法がない。

ちなみに、性格美人をマネる手っ取り早い方法をひとつだけあげるなら、ともかく会話の出だしと語尾だけをよーく聞いて、それだけでいいからマネてみる。“意味ある習慣は、人格を変える”と言うし。いい人は、話の出だしがソフトで、話の最後が思いやりに満ちている。よく聞くと否定とか批判であっても、また声にドスがきいていても、会話の始めと終わりだけは“いい人”の心が生きているもの。相手を傷つけまいといういい人だけの法則が、そこに生きているはずなのだ。やってみよう、性格美人の話し方のマネ。ただ、“性根”は生まれつきのもの、基本的には変わらないと言われるが、性格美人を真似るなんて、実際可能なんだろうか。

結論から言うなら、真似できる人と真似できない人がいて、その分かれ目はと言えば、涙の種類。“何に対して涙の出るタチか?”。まず決定的なのは、泣く時はだいたい“悔し涙”という人は、性格美人といくら付き合っても、そこからいいエキスを吸い上げたりはまずしない。悔し涙が基本の人は、結局のところ自分自身のことにしか、心があまり動かないタチなわけで、こういう人はいくら“いい人”が良いことをしても、心はおよそ動かない。だいたいのことを自分を主軸にして考える思考回路がすでに固まってしまっているから、他人の言動に心が動くはずがないのである。でもたとえば、ドキュメンタリーとかスポーツとかトークとか、ともかく“人”のやってることや言ってることに感動し、たちまち涙が出るという人は、大丈夫。性格美人を真似られる。“いい人”のそばにいると、何となく真似してみようという気になって、そして、コピーができてしまう。

人にしみる心があるかどうか・・・・・・これは性格形成における絶対の分かれ目で、基本的に自分以外のことにはあまり関心がなく、“人の気持ち”にこだわらない人はどう引っくり返っても、体のどこからも“いい人の因子”は入ってこない。だからこそ、子供の頃にできてしまった自己中心的性格が、岩のように堅固なものになって、やわらかく何かを吸収しようなんて、ハナから思えないのである。で、いくら“いい人”がそばにいても、“都合のいい人”にしか感じない。これは人生においてかなりもったいない、そしてかなり悲しいことである。

もちろん人間はそんなに一面的にはできていない、とっても複雑で多面的な生きものである。安いドラマみたいに、人間を“いい人”と“悪い人”にキッパリ二分するなんて、不可能だ。でももしどうしても二分しなきゃいけないなら、やっぱりその境界線は、自分のことでしか泣けないか、人のことでも泣けるか、その一点なんじゃないかと思う。

たとえば、とっても意地悪でずるくて、悪意に満ちた人も、その根っこにある感情をたどっていったら、“誰かと心でつながりたい”“誰かに愛されたい”という気持ちが歪んでしまっているだけかもしれないし、そういう人が、“いい人”と付き合って、ちゃんと優しくされて、ちゃんと思いやられたとしたら、それこそ安いドラマも青ざめるような「友だちっていいよね」なんて言葉が出てきちゃうかもしれないからだ。

そういう奇跡も起こらないのは、自分さえ良きゃいい人。そういう人には残念ながら性格美人はうつらない。そして一生直らない。ある程度、固まってしまった大人の人格を良い方に転換させられるのは、哲学書でも聖書でもなく、人。人間しかない。性格ブスを性格美人に変えられる美容法はない。生身の人間以外にないのである。

“品格”もじつは簡単にマネできる

あらゆる美容は、マネから始まる。ファッションからマナーまで、“素敵”は“素敵なひと”をマネすることで、女から女へ、脈々と受け継がれていくもの。いちばんマネしにくいと言われる“品格”ですらじつはいとも簡単にマネてしまえる方法がある。それは、発声をマネること。

声の質は生まれつきのものだが、発声だけはマネられる。そもそも一人の人間がもっている声の種類は思いのほか幅広く、自分はそんないろんな声をもってはいないと思うのは、単にいつも同じ声しか使っていないから。誰でも数種類の声を使いわけることができるのだ。ところが、たとえば母親世代は家の電話を取る時1オクターブも高い声で「もしもし↑」と言えるのに、今の20代30代はひとつの声しか使わなくなってしまったなんて言われる。せめてもうひとつ、上品な声をもってもいいんじゃないかと思う。

でもどうやるの?という時、まわりにいる上品な人の声を思い出してみよう。品格っていうのは、最終的に発声で決まると言ってもいいほど、彼女たちは声の出し方がていねいで、ビービー言わない。ノドではなくお腹で声を出す感じ。それを耳で聞き、口でマネると、それだけで上品な女に見えるのは、日本の女の声が平均的にビービーしてきたため。性格美人同様、女の質、人間の質は結局のところ口から吐く言葉と声で決まる、そういうことだろうか?

Edited by 齋藤 薫

公開日:2015.04.23

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