連載 齋藤薫の美容自身stage2

デキる女は、生きにくい

公開日:2015.04.23

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

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謙虚は、”デキる女”が世間に足を引っぱられないための、お守りのようなもの。

どの世界にもある、力の個人差。すべての集団、すべての仕事に、優れたものと劣ったものが存在する。でも、優れたものが偉くって、力の劣ったものがちっちゃくなっているかというと、じつはそうとも限らない。それがこの世の不思議・・・・・・。昔はそこがもっとフェアだった。学校では勉強のデキる生徒が、明らかに大きな顔をしていた。ところが今の学校では、勉強がデキたばっかりにイジメられてしまうケースもある。同じようなことが、大人の仕事場にも起きている現実を、今は多くの女性が感じているはずなのだ。

どうも、そういうことがありそうだと、みんなが思っているのが、たとえばアナウンサーの世界。だから興味本位で取りあげるのではない、女の職場の縮図みたいなところだから、心をこめてシミュレーションしてみたいのだ、女子アナの世界を。局には毎年数名の“新人”が入社してくるが、その分番組が増えるわけじゃなく、だから政治家みたいに何人かは“落選”していったり引退を余儀なくされる。女優に“定員”はないが、女子アナには明確な“定員”がある上に、競うものも建て前的には“しゃべりの技”、いい役を取る競争はむしろ女優より熾烈とも言われる。しかもそこは芸能界じゃなく、一般企業。先輩後輩、上司部下の境界線は明確。だから新人がいきなり才能を開花させ、仕事が集中すれば、そりゃあ上は気にくわない、想像するだに、軋轢は避けがたい市場だ。急に“売れっ子”になってしまったアナウンサーには、有形無形の嫉妬があるはずで、仕事が他の人に比べて忙しい上に、そういう嫉妬から身をかわさなきゃならない、先輩対策もしなきゃならない。だからデキる女は、とことん忙しいのである。

もちろん誰にどう思われようと平ちゃらの強気なタイプなら「私がイチバン、文句ある?」と堂堂そういう“ねたみそねみ”に抵抗できるのだろうが、人が良く攻撃的でもなく、バランスもとれてしまっている、つまり人格的なものもひっくるめて“デキる女”ほど、肩身の狭い想いをしたりする。それが今の社会なのである。社会の評価は相対的なもので絶対評価ではない。誰が1位で、誰がビリかは主に人が決めるもので、“売り上げ成績”以外は、ケチをつけやすい。だから社会でデキる女はむしろ不利なのだ。そもそも試験などの点数で、どうにも動かしようのない順位が出てしまえば、人の嫉妬というのは、そうそう生じるものじゃないが、それが社長であれ誰であれ、生身の人間が決めた評価だと、当然「なぜあの子ばかりが……」という不満が生まれてくる。“決定的な力の差”であると認めたくないから、不公平だ、または“依怙ひいき”だと主張したくなる。

ましてや女子アナは、全員が何千倍だか何万倍だかの競争率を勝ちぬいてきた女の勝利者。ならばよけい“自分が負けるのはおかしい”と思うのだろう。デキる女が集まっている場所で“よりデキる女”はまさに生きにくい。デキるのに、デキるとは認められないしくみになっている。じゃあ“デキる女”はどうしたらいいのか? これはもう、“社会のしくみ”としてこの不条理をそっくり受けとめるしかないのだと思う。外では認められても、内部では認められない。世間で認められるほどに、身内からは認められにくくなるような不思議が社会にはあることを、とりあえず知っておく。理解しなくてもいいから知っておく。たとえば、自分の企画が当たって、自ら開発した商品が大ヒットしても、社内では大拍手を浴びないことを覚悟しておく。大拍手の代わりに“無視”や“仲間外れ”が待っていても、世の中そんなものと、その事態を淡々と受けとめるしかないのだ。

でも、そういう不条理を本当の意味でのりこえるために必要なのが、すなわち“謙虚さ”なのだと思う。いくらデキると言われても「私なんてまだまだ・・・・・・」「私なんかとてもとても・・・・・・」、もしも心からそう思えれば、周囲に認められなくてもあまり気にならないし、また嫉妬されても、あまりこたえない。

いやそもそも、本当の意味で謙虚になれば、たぶん嫉妬の嵐もやってこない。謙虚さは、「私なんかまだまだ・・・・・・」と言葉で言うものじゃなく、空気として自然に伝わっていくもの。それがちゃんと伝われば、“デキる女”もそれほど痛い目には遭わないはずなのだ。それが社会というところ・・・・・・。周囲に実力を認められなくても腹がたたないから、自分自身も楽。謙虚は、他人にも自分にも効くのである。

ちなみに謙虚さとは、デキる人だけに許された徳。能力がない人が、謙虚になってもさほど意味はない。“デキる女”の謙虚だけが光るのだ。言いかえれば、謙虚さは“デキる女”が足を引っぱられないよう、身を守るお守りのようなもの。デキる女はすべからく、謙虚にならなきゃいけないという、それは教訓なのかもしれない。

謙虚と自信の不思議な関係

デキる女が安全に生きていくためには、最低でも“謙虚さ”が必要だと言ったが、“謙虚になる”っていうのも、人としての基本なのに、なろうとすると難しい。謙虚ってそもそもどこから来るのだろう。 「私なんてまだまだ・・・・・・」と言えば、「まあごケンソン。もっと自信を持ちなさい」。確かに、謙虚の反対は“自信満々”、謙虚な人ほど自信がなさそう。でも、謙虚さはどこから来るのかと言えば、これがまた他でもない、自信から来るもの。ある意味での自信があるから人は謙虚になれるのだ。辞書を引けば謙虚とは、“控えめで素直なこと”と書いてあるけれど、じつはもっともっと深い感情。不遜な人は、根っこの部分に自信がないから実際よりも自分を大きく見せようとしたり、一回デキてしまったことに執着する。もちろん、単なるカン違いで思い上がる人も多いが、それも一瞬の自信過剰から始まる錯覚にすぎない。

そもそもが正しい自信は、心の底のほうに静かに静かに蓄積していくもの。そういう静かな自信があれば、私はスゴイのよと自分の優れた部分を他人に見せびらかさなくてすむのだと思う。自分はいつもデキる、明日も来月も来年もきっとデキるだろう。結局は自信が作るそういうゆとりが謙虚さにつながる。だからこそ、本当にデキる人ほど謙虚になれる、そういうしくみなんじゃないだろうか。

Edited by 齋藤 薫

公開日:2015.04.23

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