1. "ふつう"は本当に"ふつう"なのか?

斎藤薫の美容自身2

2015.04.23

"ふつう"は本当に"ふつう"なのか?

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

"ふつうの人"の感性をもった人ほど素敵な大人になっていく。"ふつう"とは"正しさ"だからだ。

「彼女ってどんな人?」「ふつうの子」第三者同士がもしも自分のことをそう言っていたら、やっぱり悲しい。そうか、私はただの“ふつう”かって・・・・・・。しかし「職業は何?」と聞かれて「ふつうのOLです」と自ら答えてしまうのはもっと空しい。他に言いようはないのかって・・・・・・。でも本当に“ふつう”ってそんなに空しいことだろうか?

電車の中で、自分の隣の中途半端なスキ間をみんなで少しずつ詰めれば、もう一人座れるのにと、一生懸命反対側に体をよせて一人分のスペースを作っていた女子高生がいた。“お年寄りに席をゆずる”まではしないが、それはやる。公共の場で、それはごくごく当たりまえの行為。それでも何かひどくホッとしたのは、自分たちが“ふつうのこと”に飢えているからなのか。

少なくとも今の時代、ふつうのことをふつうにできる、それ自体がとても尊いこと。世の中そのものが“ふつう”に飢えているから、そして“ふつうのこと”をふつうにこなすのは案外難しいことだからである。電車にゆられて仕事場に向かう有名な女優を見つけたような時、あ、この人“ふつうの人”なんだと思って、少しファンになったりするもの。またそういうシーンで、ほとんどスッピンのまま、サングラスもかけずに隅っこのほうで文庫本かなにかを読んでいたりすると、自分たち以上に“ふつう”の感覚に、この人スゴイと思ってしまう。“ふつう”は本当に“ふつう”なのか?女子高生と女優は、“ふつう”でない存在の象徴みたいなもの。そういう存在が、“ふつう”じゃないところに行きかけながら、でも“ふつう”に戻っていこうとする姿、人はそこにホッとしたり、うれしくなったりするのである。“ふつう”が決定的に不足している時代、“ふつう”であろうとする、その理性とか知性そのものが光るのである。