
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
強さは不器用さ。だから強い女ほど傷つく。”くたくたの女”もじつはインナーデリケート?
まわりが“強い女”ばかりで、もうくたくた・・・・・・仕事場でも、ママ同士のおつき合いでも、またもっと単純な友人同士の集まりでさえ、日頃そう感じている人は、きっと少なくないはずだ。もちろん“強さ”にもいろいろある。人を攻撃する強さもあれば、人をぐいぐい引っぱる強さもある。そして「ワタシが」「ワタシが」と自己主張の激しいタイプもいれば、虎視眈々と成功を狙うタイプもいる。それはもういろいろだが、“強い女”に共通するのは、向上心。とにもかくにも、前に行く、上にあがる、そういうエネルギーがさまざまな形の強さになってくる。
そういう意味でも、バブルの時代に大人になった今の30代は、日本の女の中でいちばん強い。良い意味でも悪い意味でも向上心が強すぎるからだ。今の20代が30代に比べると、おとなしく従順なタイプが多いというのも、バブルがパチンと弾けたあとに大人になって、多くを望むこともなく、また自分を過大評価することもない世代だから。
だからそういう“強い女”が複数いれば、形ある軋轢なんかなくても、向上心がぶつかり合うだけで、人はくたくたになる。自分を磨きたい、自分を高めたい気持ちがせり合うだけで人はくたくたになる。そういう環境で、自分をどう支えていったらいいかわからなくなっている人はきっと多いはず。
だから聞いてほしいのは、“強い女”って本当は、大して強くないってこと。いやむしろとってもモロいこと。硬くて強いつっかえ棒ほどじつは折れやすい。ピンと強く張った糸ほど切れやすい。同様に体中に力がいっぱい入っていると、何かにぶつかった時、大きな衝撃を受けやすいのだ。前へ前へとひたすら前に進もうとしているタイプも、やっぱりカベにぶつかった時の損傷は大きい。だから強い女ほど、じつは弱いのだ。
人間は、私たちが考えているほど単純ではない。特に、心の強さ弱さに関しては、多くの矛盾をはらむことになる。性格がきついから心が強いのではない。おとなしいから心が弱いのではない。むしろまったく逆だったりするのである。ひょっとすると女は、内と外とをわざと裏腹に見せているのではないか、と思うくらい。
たとえば、攻撃性や嫉妬深さ、自己主張や自己顕示欲の強さも、本当は気の弱さからくるものがほとんどだったりする。気が小さいからこそ、すごんでみたり、くってかかったり。そして、本当は自信がないから、自分を大きく見せたり、目立つことをやってみたりする。本当は、神経が細かいからこそ、口調がきつくなったりするのである。“強い女”につぶされそうになっている人がそれを知ったら、少し楽になるはずだ。強そうに見えても、じつは弱い。弱いから、強く出てしまうのだとしたら、相手に対して持っていた抵抗感も少し和らぐはず。相手を拒んだり、ただ無言で従うのではなく、相手を受け入れようとするはずなのだ。少なくとも相手がこわくなくなる。
そして、“強い女”たち自身も、じつは心が弱いのだと知ると少し楽になる。弱いから、糸をぴんと張って、今にも切れてしまいそうな状態で人と接してしまう。強さとは不器用さなのだと知れば、無理に糸を引っぱることもなくなるはずだ。しかし、“強い女”は、強い強い向上心をもち、前へ進むエネルギーだけは決してヤワなものじゃない。だから仮に途中で、自分はとても心が弱い女と気づいたとしても、前に進むしかないから、ちょっと泣きベソをかきながら、痛い痛いと苦痛を感じながらも前に進んでいくのである。
一見強いのにじつは弱い、でも前に進むしかないから、とても辛い。“インナードライ”ならぬ“インナーデリケート”な女たちは、そういう意味でとても不器用だ。一方にいる、一見弱そうだけれども、じつは強い女たちは、人と正面からぶつかることもないから、ひっそりと、一応は穏やかに生きている。“強く見える強さ”より“弱く見える強さ”のほうが生きる上では楽なのかもしれない。
だから、“強い女も”、自分の心の弱さをもっと素直に認め、ぴんと張りつづけてきた糸を少しゆるめるべき。何かがぶつかってきても、一度へこんでみて、その反動でそれをはね返すような、柔軟な受けとめ方をしてみるべきだということ。前へ前へひたすら前へ進むのではなく、前へ進んだり、たまに後ろに後ずさりしながら進むのもいいのじゃないか。
そして、まわりが“強い女たち”だらけで、くたくたという人・・・・・・あなたもじつは、ここでいう強い女なのじゃないか?人から強く見えていても、じつは弱い、インナーデリケートな女だから、くたくたなんじゃないのか?強さは不器用さ、強さは弱さ。そして強いから傷つく・・・・・・だからあなたは今、くたくたなのではないか?
日本の女は今、身も心もちょっとインナーデリケート
かつて“自称敏感肌”という“肌質”があった。自分の肌は敏感と思いこんでいる、あるいは心のどこかで敏感肌にあこがれ、敏感肌のふりをしている肌たちが・・・・・・。そして、こういう“肌質”が存在したのはたぶん日本だけ。やっぱり日本には、かよわい女ほど美しいという美意識が残っていたのである。そして、自分を弱きものに見せたがった女は、内面が案外したたか。なるほど女は、自分の内面とは逆の女に見られようとするようだ。
しかし最近は、“自称敏感肌”がめっきり減り、まったく逆に強いふりして、じつは弱さをはらんでいる“自称健康肌”が増えている。つまり、外側は角質ケアや毛穴ケアでピンピンつるつるの丈夫そうな肌をしているのに、じつはちょっとした刺激で不安定になりがちな、インナーデリケートな肌も増えているってこと。
1990年代、“強い女”“媚びない女”が流行ったせいだろうか? 江角マキコみたいな、スパッとした女がやたらカッコよく見えたのは確か。だからみんな美脚パンツをはいて、サッソウと街をカッポしていたわけだけど、でも心はむしろ弱っていた。いや逆に、名実ともに男女平等と相なって、じつはひそかに疲れきっていた女たち、それを隠すために、強い女を装っていたという見方もチラホラ。女はいつの時代も心と体は“裏腹”なんである。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23