連載 齋藤薫の美容自身stage2

薄っぺらい女と、奥ゆきある女の分かれ道

公開日:2015.04.23

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

結果として、心が満たされた幸せな女ほど”奥ゆきある女”に見える。

「休みの時は何をしているか?」という話題になった時、いきなり「日サロ」と答えた大手企業勤務の男がいた。実際、いつも真っ黒な男にとってそれはひとつの常識なのかもしれないが、せめてもう少しカッコつけてほしかった。男として何かもう少しプライドを持ってほしかった。そこにいる女性全員が、一斉に思ったはずなのだ。「なんて薄っぺらいの」って。

また会社を辞めようかと思っているという男がいて、「次はどんな仕事を?」と聞くと、家がマンション経営をやっていて、それを継ぐことになったからって言うのだが、その男はまだ30代半ば。早くもこれからはずっと遊んで暮らせるよという意味?うらやましさも手伝って、何と薄っぺらいの?と思ったもの。女は男に対し、本当に年がら年中“薄っぺらい”って思っている。世の中に“薄っぺらい男”はなんと多いことかと思っている。もっと言えば、女より男のほうが、平均的に人間が薄いのじゃないかって思ったりするくらい。いや、たぶん女は男に、できるだけ奥ゆきある存在でいてほしいと切望しているからこそ、しょっちゅう期待を裏切られるのだろうが、私たち女が見た“女の薄さ”は、だから男の薄さとは微妙に異なっている。

たとえば、休日に“日サロ”ばっかり行っている男は薄くても、エステばっかり行ってる女は、別に薄っぺらいとは思われない。いやかつては、美容のみに猛進する女もちゃんと“薄っぺらい”と言われてた、外見ばかりを磨いて、内面を磨かない女はペラペラだと。しかし時代は変わり、今はたとえ一日中美容していても、ひとまず薄っぺらいとは言われない。それどころか、仕事や家事が大変だからと、女をまったく磨かない女のほうがむしろ薄っぺらく見えてしまったりする時代。仕事とキレイ、両方に手を抜かない、そのキャパの広さこそ何よりの奥ゆきだが、キレイであることそのものが、単体でもう立派な奥ゆきとなる、今やそういう時代なのである。

さらに親がくれたマンションを経営、特に仕事をせずにプラプラしていても、女は別に薄っぺらくは見えない。それが何歳だろうと、薄っぺらくは見えない。いやむしろ女は若いほど、そういう背景が奥ゆきに見える、そこも男とは違うのだ。自分で額に汗しなくても、裕福な暮らしを手に入れただけで、それが奥ゆきに見える。“良家の令嬢”というだけで、奥ゆきに見えてしまうのだ。だからこそ女は“玉の輿”を狙うのかもしれないが、それだってきっちり成功させれば、ちゃんと奥ゆきに見える。“玉の輿”かどうかは知らないが、少なくとも誰も真似できそうにない結婚をした後藤久美子さんは、あの若さで日本でも格別に奥ゆきある女性に見えるのだから、“すごい結婚”それ自体が、女を厚みある存在に見せるのは確かなのだ。

もちろん自らの力でお金持ちになった女は、独身だろうが何だろうが、やっぱり厚みを持ってくる。かと言って、お金持ちになることがイコール奥ゆきではもちろんない。じゃあ端的に言って、“女の奥ゆき”とは何なのか? 男の奥ゆきが、やっぱり仕事抜きにはありえないのに対し、女の奥ゆきのキモとは一体何なのか?おそらくそれは“精神の充足”。日々心が満たされていること。結果として、本当の意味で幸せな日々を送っていること。

つまり、お金持ちな女が“厚く”見えるのは、おそらく人一倍濃度の濃い生活をしているのだろうと思えるから。そして生活はそれほど豊かではなくても、精神が充実しきった生活をしていることが見ていてわかる女は、やっぱりちゃんと奥ゆきある女に見える。でも逆に、お金はあってもブランドものを集めることくらいしか興味がなくて、パリだミラノだニューヨークだと、しょっちゅう海外に行ってもブランド買いが主な目的だったりする、そういうタイプは、一見幸せそうでもやっぱりペラッとした女に見えてしまう。心を満たすものが他にないから、ブランド買いで充足を得ようとしている女・・・・・・、そう見えるからである。

一方で、これは男女共通だが、人間には、何かしら文化の香りが匂っていないと、どうしても紙一枚のようなペラペラ感が目立ってしまう。別に“文化芸術”に関する趣味を持っていなくてもいいのだ。絵を描けたり、何か楽器ができたりしなくてもいいのだ。でも最低でも景色や芸術に心を動かされてほしい。感動する心は、それだけで精神的な充実があるだろうと想像できるから。少なくとも売れない画家だって、決して薄っぺらく見えないのは、そういう文化の血が、そのまま精神的充実を意味するからだろうと思う。そしてまた、心に文化があれば、キレイな夕日や道端に咲く花にまで敏感に心を震わせられる。だから幸せなのだという見方もできる。ともかく、“物質欲”だけで生きていると一生埋まらないものに、奥ゆきは宿るということなのだ。“物より思い出”という印象的なCMコピーがあるけれど、まさに物では埋まらない、喜びや愉しみや知的欲求で心をしっかりと埋めている、それが女にとっての“幸せ”であり、同時に奥ゆきになっていると言いたいのである。

でも裏を返せば、本物の幸せをつかめるのは、“キレイ”から“一生懸命”まで、いろんな意味での“女の才能”を備えている人たちに他ならず、だから“幸せになれること=奥ゆきあること”なのかもしれない。男の厚みのキモが仕事なら、女の厚みのキモは幸せ。女はやっぱり、幸せになるために生まれてきた生き物だからこそ、心が満たされている分だけ奥が深く見える、そういうこと。逆を言えば、不幸なうえに、心が虚しいうえに、“薄っぺらい女”に見えるなんて、あまりに悲しい。女はその危険ゾーンにだけは入っちゃいけないのである。

コスメフリークはかつて、なぜ薄っぺらいと言われたか?

今では信じられないことだが、その昔、“美容”はどこか“うしろめたい”ものだった。美容を必死でやっている女は、中身がない、もっと言えば、頭が悪いと思われたからである。“天は二物を与えず”って言葉が、最近はあまりピンとこなくなってきた。キレイな上にデキる女なんて、この世にいっぱいいるからである。しかしかつては、本当に天は二物を与えずで、キレイな人とデキる人は、ハッキリ二分された。キレイか、デキるかの二者択一だった。だから“美容”を選ぶと、いかにも“頭が悪そう”に見えたのだ。だいたいが、電車の中で化粧するなんて、ありえない時代。化粧をする姿を、人目にさらすこと自体が、着がえを見られるようなこと。そういう化粧を“大好き”なんてわざわざ人に言うことも憚はばかられた時代なのだ。

でもじつはそれも、キレイになれない女たちが、やっかみ半分で言ったこと、という見方もある。昔は今ほど、キレイになるのが簡単ではなかった。化粧品も今ほど効かなかったし、プチ整形もなかったし、だから二者択一をせまられて、キレイをあきらめた女がキレイな女に対し、“薄っぺらい”とカゲ口を言ったのが真相だったのかもしれない。いずれにせよ、コスメフリークが薄っぺらくないのも今は“二物を持つ女”の時代だから、それをここで再認識すべき。両方持っていて初めて生きるのが“キレイ”なのだって。

Edited by 齋藤 薫

公開日:2015.04.23

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