
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
常識とは、情ある言葉……。そう訳してしまうと案外すべてがうまくいく。
今回“小泉チルドレン”から、私たちが教わったのは、もうひとつ“一般常識”とは何かってこと。まず、“常識”の有無を厳しく問われ、今も何かと話題の太蔵氏。誰もが国民の血税でBMWを買いますと聞こえた発言が最初に問題になり、他にも失言は多々あったものの、これはむしろ、“正直でいいんじゃない?”と逆に国民の支持を得てしまったり。しかし“政治家として許しちゃっていいのか?”と世間が本気で色めきたったのは、自分の両親に「お父さん、お母さんにこう言っていただきました」と、思いきり敬語を使っちゃった時である。
ここでわざわざ正すまでもないが、「父と母にこう言われました」が正解。「パパとママがね」と言わなかっただけマシだけれど、ともかくそのひとことで、この人本当にヤバイかも……と世間が不安に思いはじめていた。ちなみにこれは、新入社員の電話の取り方でまっ先に習う常識。「社長は今、出かけていらっしゃいます」と言ってはいけない。相手が誰だろうと、会社の人間の話を外部にする時は、敬語を使えない。そこを徹底的にたたきこまれるはずなのだ。
もちろん、大卒の新人がそれを知らないこと自体問題だけれど、でも今どきは、家の電話で家族に取り次ぎをすること自体が希、みんなケータイで自分にかかってきた電話にしか出ない時代。社会に出てからしか“実践の場面”がないからこそ、ともかくミスのないよう、しつこくたたきこまれるわけである。常識のあるなしを、これひとつで判断され、堂々と間違えると3年間はもう挽回できないくらい、おバカに見えてしまう、まさに言い訳がきかない“非常識”。
実際、杉村氏はその後におこなった会見ではなかなかソツなくしゃべり、この手のミスはひとつもおかさなかったと言われるが、やっぱり「お父さん、お母さんにこう言っていただいた」という大ミスの穴ぼこは埋まらない。もっともっと、賢さを見せつづけないと、そのイメージは塗りかわらないのだ。結局のところ、常識とは、“正しい言葉づかい”だってことを思い知らされるが、その一方で、またこんな問題が勃発した。やっぱり何かと話題の小泉シスターズのひとりが、TVのインタビューでよりにもよって、民主党党首を“コイツ”呼ばわりしてしまったというアレ。当然、民主党からクレームがつき、また自民党のほうからも厳重注意が言い渡されるという事態になった。「血の気の多い男の議員だって、こんな言葉は使わない」って……。
でもふと思うのは、私たち女も日常的に、「こいつ、許せないよね」なんて、平気で言っている。女の日常会話にも、“コイツ”はけっこうふつうに入ってきていて、緊張感なく、自分の言葉でしゃべっていたから、うっかり口がすべったのだろう。しかしこれまた、このひとことで、へんなレッテルを貼られてしまう。しかも、“常識がない愚かさ”とは違う、品位不足に加え、「カワイくない」というレッテルが。ひょっとすると「お父さん、お母さん」より厳しいレッテルだが、女たちは逆に度胸の良さを見るのに対し、社会は「こいつ」という言葉を使えちゃう女に反抗心を見てしまう。“ひとこと”はそれほど重いのだ。
後にあるコメンテーターが、この人のことを「こいつさん」と呼んでいた。“ひとことのミス”は重たいうえに、しつこくつきまとうのである。もちろんマナー上のミスも、「あの子が、人の結婚式に白いドレスを着てきちゃった子」といつまでも言い伝えられたりするが、社会人としての常識・非常識はまず“言葉が語るのだ”ということを、この機会に肝に銘じておきたい。
ところで、“言葉の常識のない女”に対して世間はどういう対応をするのかと考えた。おそらく同僚たちは、本能的にあんまり親しくなりたくないって思うのだろう。なぜなら、“非常識”ってうっかりすると、うつるからである。もちろん一度覚えたマナーや敬語は忘れないが、一度身についた非常識な言葉も人は忘れない。残念ながら、言葉づかいだけは簡単にうつっていく。言葉がうつる早さはこれが異常で、特に品位のない言葉は“一般常識”を身につけるよりも早くのりうつっていく。人は良くも悪くも順応性があるから朱に交われば……で、品位のレベルも自然になぞられていくが、それを媒介するのが、言葉なのである。
ちなみに“常識”という言葉の歴史は案外浅い。コモンセンスという言葉を誰かが訳して“常識”としたのは、明治の中頃だと言われる。常識という概念そのものがまだ新しいわけだが、最初コモンセンスは、“人生の常情”と訳されたという。常情は、ふつうの人がみんな持っている人情。そもそもそれは決まりきったルールではなく、誰をも不快にさせない、“ふつうの情”という意味を持っていたのだ。確かに、エレベーターから先に降りようとしている人が“開く”のボタンを押してくれている人に、「恐れ入ります」と言えないことが非常識……。常識は、ふつうの人がふつうに持つ情で、相手の心をふとあたためる情に他ならない。常識は人を幸せにするもの、なんである。 、常識=ルール”ととらえてしまいがちだけど、でも、常識は情”と思えた時、言葉は自然に美しい日本語をていねいに選んで、人に渡されるようになるだろう。常識は、情ある言葉……。そう訳してしまえばすべてがうまくいく。
“あいさつがない”という非常識
今や“一般社会”よりも“芸能界”のほうが逆に常識的であるというのが常識。少なくとも、今どき女子高生より若手タレントのほうが一般常識を知っていたりするのは、芸能界だって先輩も上司もいる立派な社会に他ならないし、何より“あいさつ”が大事な世界であるからだろう。常識の最たるものは“あいさつ”で、世間の評価を決めてしまうのは、“礼儀正しさ”。だから、ともかく“あいさつ”さえまともにできれば、それだけで世間の半分ぐらいまでは、すーすーと渡っていける。それが、日本という国なのだ。
ただし“あいさつ”は、常識である前に、そのつどそのつど人付き合いを円滑にするための、いちばん短く、いちばん簡単な工夫。その日その日の同僚同士の気持ちは朝一発めの“おはよう”の言い方で決まってしまう。機嫌良く感じ良く“おはよう”を言えば、その日一日の人間関係はそれだけでまったくなめらかにすべり出し、よほどのことがない限り、二人の間で心が通う。しかし、厄介なことにどちらかが難しいタイプの場合、二人の関係は毎日仕切り直し。昨日関係が良好でも、今日は関係が悪化している。毎朝毎朝、仕切り直さなくてはいけないから、「おはよう」が大切なのである。澄んだ声でにこやかに「おはようございます」。常識はまさに“人と人の間に通う情”だから非常識は人を不幸にし、常識は人を幸せにするのである。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23