連載 齋藤薫の美容自身stage2

誇り高さが、幸せを呼ぶ

公開日:2015.04.23

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

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“誇り高さ”とは、逆境にある自分に勇気をくれるもの。

プライドを、日本語に訳すと“誇り”になる。どんな辞書を引いても、誇りとプライドはほとんどイコールだ。けれども、私たち日本人にとって、“プライドが高いこと”と“誇り高いこと”は、何かが違う。同じ意味として片付けることができないのだ。言うなれば“ラブ”と“愛”を、同じ意味として片づけられないように……。乱暴に言ってしまえば、プライドはどこかに“見栄”というニュアンスを含むのに対して、“誇り”には、自分を卑下せずに静かな自信をもって、胸を張って生きていく……みたいなある種の崇高さを感じるのである。“漢字”のぶんだけ、重さを感じ、日本人として言霊を感じてしまうということなのかもしれないが。

そこで、無理矢理使い分けるならば、“プライドの高さ”は、恋愛において、ちょっとでも相手の気持ちが自分から離れたら、自ら関係を壊そうとし、自滅も覚悟で相手を攻撃してしまいがちだが、“誇り高さ”は、同じように相手の気持ちが離れていっても、破滅的にはならない。ちゃんと自分の力で自分を立て直していく、そして以前よりもっと大きな自分に成長していくという“転んでもただでは起きないしたたかさ”、“自分を信じて力強く立ち上がる不屈の精神”をそこに見せつけるのが、“誇り高き女”であると思うのだ。

たとえばそれは、話題を呼んだ映画『華麗なる恋の舞台で』にしっかり描かれていた。つまり明らかに“プライドの高い女”じゃなく、これぞ“誇り高き女”がそこに登場するのである。たとえばあなたは、自分の恋人を奪った女が、同じ職場にいたらどうするだろうか?この映画のヒロインは“舞台女優”。そして“年下の恋人”を奪った“若い女”は、女優の卵。またヒロインにも、愛は冷めきっているものの“仕事のパートナー”である夫がいるが、その“若い女”はなんと夫の愛人もやっていた。しかも若い女は、自分も同じ舞台に出たいと、自ら奪った2人の男を通じて、ヒロインに働きかけてくる。

二重三重の屈辱、そのうえに相手は自分よりはるかに若い。ハッキリ言って、プライドはもうボロボロなはず。しかし“大女優”はそこで激怒したり、取り乱したり、破滅的に何かを壊してしまったりはしない。むしろどんどん冷静になっていき、“若い女”を自分の舞台にも起用するのだ。なんと寛大な……と思うだろう。しかし“誇り高き女”は、そういう理不尽を通してしまうほどヤワではない。“大人の誇り”、“女の誇り”、“社会人の誇り”をキズつけられたことの代償はしっかりと払ってもらおうと思っている。

結末は“大女優としての誇り”を完全な形で取り戻すように、舞台の上で、とことんスマートなリベンジをするのだ。だから自分自身は決して破滅しない。むしろ才能や実力を世間に思い知らせ、周囲にまったく気づかれず、だから自分は何ひとつ失わない形で、彼女のプライドをキズつけた人たちだけが、シッペ返しをくらうのである。その胸のすくこと。ヒロインの誇り高さがきらめく瞬間に、拍手を贈らずにはいられない。もしこれが“プライドの高すぎる女”だったら、そこにいくまでの間にすでにすべてをぶち壊していたのだろう。男と刺し違えるか、若い女に陰湿な復讐をするか?どちらにしても、自分自身も多くを失い、もう何も元にはもどらない。たぶんその結末は、まったく異なるはずなのである。

だからこうも思う。“誇り”とは、最後まで自分を守ってくれるものなのだって。プライドは、高くそびえ立たせるとぽっきり折れて、自らを滅ぼすことさえあるけれど、真の誇りは逆に倒れないようにしっかりと足を踏ん張って、自分を支えてくれる。プライドが上へ上へ高く積み上がるものなら、誇り高さはむしろ下へ下へ、しっかりと根を張っていくもののような気がするのだ。エリート意識を支えるのがプライド、逆境にある自分を支えてくれるのが誇り……そうやって無理矢理分けてみれば、よりわかりやすくなるのだろう。それも、人にはハッキリ2種類の“自尊心”というものがすんでいて、大人はそれをきっちり使い分けるべきだろうと思うからなのだ。

もうひとつ、映画から話を引っ張ってくるのなら、黒人をヒロインにした映画は、不思議にその多くが“誇り高さ”をテーマにしている。『カラーパープル』から『ドリームガールズ』まで。なぜだろうと考えた。結局のところ、マイノリティであったり、逆境にあったりしても、自信をもって胸を張って生きる糧は“誇り高さ”に他ならず、誇りは自分を勇気づけるもの、生きていくエネルギーに変わるもの、だからいちばん尊いもの、という真理を描いているからなのだ。

一方で、“誇り”という字を見ると思い出してしまうのは、あの“逆オスカー”とも言うべき最低映画賞で最低主演女優賞に選ばれてしまったハル・ベリーが、「キャリアを積んだら、批判にもちゃんと耳を傾けるべき」と、授賞式に出てきて堂々とスピーチしたこと。これにはなんだか妙に感動したもの。まさしく“誇り”があるからできること。世の中の批判に真正面から向き合うだけの誇りと、そして自信があるからこそ、できたこと。誇りのためにそこまでした女がいたことを、今こういう時代だからこそ、心のどこかにとどめておきたいのだ。

「プライドを捨てなさい」とは言うが、「誇りを捨てなさい」とは言わない。むしろ「誇りを持ちなさい」「誇りを取り戻しなさい」と使う。だから今この機会に、心の中でそれをきっちりすみ分けして、つまらないプライドを捨て、誇りを取り戻す……何か今、私たちがやらなきゃいけないことって、それのような気がする。

批判を受けた時に、支えてくれるのが誇り

本文中であげた“最低主演女優賞”の一件は、すでに何年かたった今も語り草になっていて、おそらくそのうち“ひとつの伝説”となってしまうのだろう。何しろこの最低最悪映画賞の受賞は恐ろしく不名誉なことであるにもかかわらず、片方で本物のオスカーも狙っているような“大物”をこれ見よがしに選ぶのが、ひとつの慣例にもなっているのだから。

たとえば、ケビン・コスナーやシルベスター・スタローンはこちらの“常連”とも言われるし、今年はなんとシャロン・ストーンがそれに輝いてしまった。こういうワーストも、“大物”が獲るから面白いのはよーくわかるが、当然のことながら、そのトロフィーを自らもらいに来る大物はゼロ。それがすでに“オスカー女優”でしかも“黒人女性初”の受賞という快挙を成し遂げたハル・ベリーが堂々とトロフィーを取りに来て、おまけにオスカー受賞の時のパロディーまでやってのけたのだから恐れ入る。黒人女性初のオスカー女優は、たぶん誇りのレベルが違うのだ。こんなことぐらいでくずれ去っちゃう誇りじゃないから、わざわざ批判を浴びにやってきた。なんという格好良さ。

人間性は、批判を浴びた時にこそ現れ出るというけれど、まさにそう。そして本当の誇りとは、批判を真正面から受け止められる大きさ、寛大さ、懐の深さを生むのだって、これでわかったはずである。

Edited by 齋藤 薫

公開日:2015.04.23

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