
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
じつは世の中、”悪い子じゃない人”の集合体。許しを許されて社会を作っている。
「あの子、悪い子じゃないんだけどね」 女たちの間で、時代を問わずとてもよく使われる表現である。欠点はあるけれど、性格は悪くない。根性が曲がっていたら、救いも何もないけれど、性格は悪くないから、社会は彼女をぜったい切り捨てるわけにはいかない。それだけに困ったね……という戸惑いがそこに隠されている言葉。たとえば、人の悪口の多い女も、そこに悪意がたっぷり含まれていたら、たちまち切り捨てられるのだろうが、そのギリギリ手前で止まっているタイプっている。
自己中心で、わがままだけれど、根性は悪くないから憎めない、みたいなタイプもここに当てはまるのだろう。わがままにもさまざまなレベルがあり、ある一線を超えたとたん、“悪い子”になるが、その境界線はと言えば、同じように罪に問われても、家政婦に傷害で訴えられたナオミ・キャンベルは許されず、車の無免許運転で捕まったパリス・ヒルトンは心情的に許されてしまう、みたいなこと。“自己中”系は、一本抜けているから憎めないこと、が重要なのである。また自己中心系にはもうひとタイプあり、ひとりで何でも仕切っちゃったり、強引に何かを決めちゃったり、スタンドプレーが目立ったり。すごくきついけど悪い人じゃない人、厳しいけど悪い人じゃない人……と職場は“悪い人じゃないけど、な女”のオンパレードと言ってもいい。
そしてまた、約束を守らないなどの、“だらしなさ”もありがちな欠点のひとつ。会うたびに男が違ったり、二股三股もヘッチャラの浮気な女もこのタイプに入れられる。
そして“不器用”系も忘れてはいけない。つまり、悪気はないのだけれど、人に反発してみたり、いつも何か怒っているようだったり、単純に不機嫌だったりするのも、不器用ゆえ。人付き合いに対して不器用だから、友だちも少なく、孤立しているような女も、決して“悪い子”じゃないと、みんな譲歩してくれるのである。この不器用にももうひとつ、仕事の不器用がある。ハッキリ言って、仕事がのろい、できない、ミスをするというタイプも、“悪い子じゃないけど、どうしたものかね、あの子は”と言われているに違いないのである。
ざっくりと代表的なタイプをあげてみたが、ここに共通するのは、困りものだけど、最終的に人をキズつけない女たち。女は最低“意地悪”でなければ、何とかなる、そういう言い方があるけれど、これもそういう話。ただ社会で一応許されてはいるけれど、人として“合格”はしていない。微妙な立場にあることは間違いないのだ。女同士は、放っておけばすぐ人の噂話になり、周囲の人間を片っ端から評論するような会話になっている。しかも、「彼女はすごい」「ほんと非の打ち所がない」なんて誰かを口々に誉める話にはあまりならず、だいたいが問題点を口々に指摘するような内容になりがちだ。
つまり、取り上げられるのは、いつもこのタイプ。その時、主に“まとめ”に使われるのが、「ま、悪い子じゃないんだけどね……」。このひと言で、いろいろあるけれど、みんなで許してあげようねというコンセンサスが得られるわけだが、言い換えればそれって、人を許してあげることで、自分たちがひとつ高みの“いい人”になるための“ひと言”であり、またいろんな悪口言っちゃったけど、でも自分たちはそれでも彼女を受け入れてあげる寛大な女たちなんだよね、という自己弁護的な共感を生むための“ひと言”でもあるのだ。
もっと言うなら、誰かを“悪い子じゃない”と許してあげている女たちも、裏を返せば同類のかたまりで“悪い子じゃないんだけどね……”って許してもらっている立場だったりするのかもしれない。つまり、お互いさま。だいたいの女は、たたけばホコリが出て、何かしら困ったところがあって、でも“悪い子じゃないから”許されている。そういうポジションにいるのじゃないだろうか。
つまり、人間社会は“悪い子じゃないけど……な女”の集合体なのである。ほとんどの人が何かしらつつかれる欠点を持っていて、自分でもそれに薄々気づいているから、お互い“悪い子じゃない”“悪い人じゃない”と許し合う。許し許されて、この人間社会を形づくっているのである。そしてもちろん、“悪い子じゃなければ、それですべてOK”なわけじゃなく、できれば“いい子”になるべきだし、人の噂話にあまりのぼらない存在になるべき。だったらまず、自分自身もどこかで同じように言われているのだと思うべき。お互いを、許し許され合っているのだと気づくべき。そして自分の問題点はどこにあるのか?
それを本気で探ってほしい。“いい子”“いい人”のレベルに上がるためには何が必要か。何がよけいなのか。人間たまにはそういう視点で自分を見つめ直すべきなの。いや、女は特にそう、ちょっとの問題があれば、たちまち噂話の人物批判の俎上にのせられてしまうのだから。女社会に生きるなら、やっぱり誰にも悪く言われない女になりたい。それもまた人生のテーマ。
“悪い人”と“いい人”の割合はもう決まってる?
あなたのまわりにも、明らかに“意地悪な女”って、ひとりやふたりはいるだろう。たぶんいくら更生しても“いい人”にはなれなさそうな、生まれつき悪意のある人が。たぶんこういう人が出現する確率って、だいたい決まっていて、それほどゾロゾロは現れないけれど、でも誰のまわりにもちゃんと数名はいる、そういうしくみになっていそうだ。一方の、誰から見ても“いい人”の割合はせいぜいが2割といったところだろうか。本当に不思議だけれど、“いい人”の割合もだいたい決まっている。何か3割以上にはぜったい増えない気がするのだ。それも、人間社会の“生態系”みたいなもので、“いい人”が何人かがかりで、“悪い人”の負のエネルギーを受け止めたり、また“いい人”が増えすぎれば、それに甘える人間が必ず出てきて、“悪い子じゃないんだけど……”というタイプを増やしたりする。しかも、“悪い子じゃないんだけど”のタイプは、お互いがお互いを許し合うから、共存共栄、したがってこのバランスが崩れることはあまりないのである。まさに人間社会の生態系。だからよけいに自分は2割弱の中に入っておきたい。
あと一歩のところで、“いい人”になれないでいる人が7割近く。まさに一歩踏み出せば、人としてひとつ高みに上がれる。ここは意識して踏み出してみたい。“いい人”の次元へ。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23