
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
美人であるだけで幸せにはなれない。美貌は大きく育ててこそ生きるエネルギーに変わる。
“美人も“美女”も同じじゃない?どっちでもいいじゃないと言うかもしれない。でもそこにある微妙なニュアンスの違いに目を向けることで、キレイになることの意味をもう一度見つめ直してもいい時代。フランス語には、女性の魅力を表現する言葉がとりわけ多いというが、日本語には“美人”を表現する言葉が、じつはけっこうたくさんある。
美人、美女はもちろん、麗人、佳人、美貌、名花、妖女、器量よし、はきだめに鶴、べっぴん、瓜実顔、傾国(君主がその美しさの虜になって国政をないがしろにするほどの絶世の美女のこと)、小股が切れ上がった女、才色兼備、卵に目鼻、水が滴るよう、明眸皓歯、容姿端麗、そして大和撫子……。まだまだありそうだが、これらはみんな“美しい女”“美しい容姿”という意味を持つ言葉。なんだか口にするだけで美しくなれそうだが、なぜこんなにたくさんあるかと言うなら、たぶん日本人は「あの人って美人!」とひとことでストレートに言い放ってしまうことが、情趣に欠けると思うからなのだ。
美しさには形だけではない、“趣”や気配みたいなものも含まれる。日本人が考える美人は、そういうものもひっくるめての美しさを指すからこそ、たくさんの言葉で表現された。ひとりひとりがニュアンスの異なる美しさを持っていることを理想とした、とても知的な美意識がベースにあったのだ。だから私たち日本人は日本人らしく、何でもかんでも“美人になりたい”じゃなく、自分はどういう種類の美しさを確立させたいのか、そこを一歩踏み込んで考えてみるべきと、そう思ったのだ。
だからあなたは美人か美女か……辞書を引くとそれこそ同じ意味だが、たったひとつ異なる点は、“美人”ってもともとは男性にも使われた言葉、美女は“美男美女”とも言うように、女性にしか使われない言葉であることだろう。そこから読み取れるのは、自分は美しいという自覚がなくても、なれるのが美人であり、充分に美しいことを知ったうえで、さらに美しさを重ねていくのが美女。“絶世の美女”“傾国の美女”……いずれも、美人より“美女”のほうがハマる。どちらもこの上ない、この世にふたりといないような美しさを示す言葉だからこそ、“美女”なのだ。美人は、まだ完全には研ぎ澄まされていない美しさ。そして女としての飾り付けが済んでいない美しさ。もちろんそのほうが清々しくて趣があるという見方もあるのだろうが、“美女”は必ず女っぽくてラグジュアリー、香水の香りも芳しく、ジュエリーもちゃんとついているのに対し、“美人”は、素顔でも美人。雰囲気美人も黒髪美人も声美人も存在するけれど、美女は美女、そういう妥協点はない。でも逆に言うなら、完璧な美形でなくても演出次第で、磨き方次第で美女はできあがる。“美女”は育むもの、なのだ。
申し分ない美人なのに、美人であることにさほど執着しないナタリー・ポートマンは、絶世の美女にはなれない美人。デビュー時はそれほど冴えなかったのに、どんどん美しさを磨き込み、自分を美しく見せる術を知り尽くしているニコール・キッドマンやシャーリーズ・セロンは、文字どおりの“絶世の美女”。そういう分類もできると思う。そして、長澤まさみはひとまず“美人”を、沢尻エリカはあきらかに“美女”を目指してる。単純に清純そうかどうかという話ではない。地味か派手か、でもない。ただ、“美女”を目指す女って、美人であることを人生にあますところなく利用しようとする。美人は、美貌を直接的に利用するのではなく、美しいことで得られた好感度の高さを支えに人生を進めていくが、美女は、美人であることをダイレクトに使って人生を切り開いていく。美貌の使い方が違うのである。 もっと言えば、美人は受け身になりがちで、そのために美しいがゆえの運命に翻弄されてしまうことも充分にありうるし、“美人薄命”という言葉があるように、美しさゆえに不幸だったり短命だったりしてしまう。
しかし“美女”は、その美しさでかっちりといい結婚をつかみ取る傾向あり。美しさを磨きに磨いて、お目当ての男に近づき、お目当ての結婚を確実に決めるのは、美人じゃなくやはり美女。美女は人生の目的が明快で、その目的のために、自分のキレイを無駄にしない、それどころか利殖のように何倍にも増やしていく、手堅い人生を構築していくエネルギーにあふれているから、美女は“美人薄命”にもなりにくいのだ。美人もいろいろ、美しさもいろいろ、しかもその美しさをどういうふうに取り扱うかで女の人生はハッキリ変わってくる。美人だからと言って、女はそれだけで幸せになれるわけじゃない。そして、美人にあぐらをかいているだけでも幸せにはなれない。美貌は進化させてこそ、生きるエネルギーに変わると考えてほしい。
「美は何かに利用してはいけない」とも言われる、それはエレガンスに反すると。でも、美人なのに美人に見えない、美人であることを無駄にすると、女はそれだけでくすんで見える。絶対に生き生き見えない。せっかく手にした美しさはちゃんと芽吹かせ、大きく育てるのは、女の使命のような気がする。美は大きくもなるし、小さくもなるし、消えたりもする、だから自分の手でちゃんと大きくしてほしい。そうすれば、美は生涯、女の味方。何度でも直接的に女を幸せにしてくれるのである。
“美人”は野暮になりやすい。セクシーまとって“美女”になろう。
美人にも、落とし穴がある。そこまで美人じゃなかったら、もう少し洗練されて見えたものの、美形だったばっかりに、何だか野暮ったく見えること、世の中じつは少なくない。そうそう、無駄に顔だけいい男、しかもちょっと時代遅れの彫りの深い美形だったりする残念な男も、顔がいいばかりに、野暮になってしまう典型的な例。もう少しくずれていたほうが、よっぽどモテたのにという……。たとえて言うなら、有名ブランドのロゴのついたスリッパみたいなもので、それがいくら端正であっても、一流ブランドのロゴが目立てば目立つほど、野暮に見えるというのと一緒。美形って、時々邪魔になるのだ。
美人も同じ。ただの整った顔は、ブランド・スリッパになってしまう。どこか少しくずれていたほうが、よほどキュートに見えるってこと。つまり美形は美形のまま、放っておいてはいけない。洗練にもっていく何かを加えなければ。美人の場合、それが“セクシー”なのだ。顔だけが妙にいい男も、どこかワルっぽくなってくれれば、ひとまず野暮を逃れられるが、同じように、顔の整った女はラグジュアリーな色っぽさを意識して加えて。もちろんミズっぽくならないように注意しながら。すると美人は必然的に“美女”になる。美女は野暮になるキケンなし。美貌ってやっぱりちゃんと光を当てないと逆に人をくすませるのである。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23