
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
四季折々の絶景を愛でるように女を愛でる、それが男の夢。だから女は自分の季節を生きよ。
マキアージュのミューズは4人、コフレドールは5人。たった一人の違いだけれど、意味するものはだいぶ違う。人の数も5人を超えるとむしろ“十人十色”、すべての女性にそれぞれの美しさがある、という提唱になるが、なぜだかタイプ別に分類すると女はいつも4種類になってしまう。そもそもが血液型も4種類であるように、おそらく人間をいちばん簡潔に、しかもいちばん正確に棲み分ける最大公約数が“4種類”であるということなのだろう。“セックス・アンド・ザ・シティ”の女も4人、“デスパレートな妻たち”も4人、良くも悪くも、女の生き方は4種類。女の業も4種類って話になるが、古くは『若草物語』や『細雪』が、性格も価値観も生き方も異なる四姉妹を描いていたし、確か『阿修羅のごとく』もそれぞれに深い苦悩を持つ四姉妹が登場した。だけれども、世の中に四姉妹なんてそんなにたくさんいるのか。現実にはほとんど見かけないし、少子化の世の中、ますます希少価値は高まっていく。かろうじてたった1組、四姉妹の知り合いがいるが、4人は確かにまったくタイプが異なり、お互いわりに反発し合って、あまり仲が良くなかったりしてしまう。
モノには四隅があるように、方角も東西南北あるように、さらには季節も春夏秋冬あるように、女も4タイプあるのは間違いなさそう。実際、五木寛之氏の『四季』は、春夏秋冬で四姉妹を4タイプに分類した。女は景色のような美しさを持っているべき、そう言われる。ナマナマしいべったりした女の美貌より、五感のすべてに訴えかけ、ただ相手が見とれて立ちつくすような美しさを持つべきと。おそらくそれは男たちの願望なのだろう。四季折々の絶景を愛でるように女を愛でる、それは男の夢。だから男はどうしても“四季”で女を分類したいのだ。現実に、男たちが思う“理想の女性像”は、ざっくり4方向に分かれていて、それが見事なまでに春夏秋冬に当てはまるという話なのである。ただ女が背負う季節は、単に与える印象だけじゃない。生き方にも人生にも大きく影響してくるはずである。しかも四季だってキレイごとばかりでは語れない。吹雪もあれば酷暑もある。
春の女は、伊東美咲みたいにまず笑顔が浮かんでくる清潔感ある人。だから、誰にでも愛されて、ともかくは幸せになれるのだろうが、一方、人生全編“我が世の春”とばかりに能天気に生きてしまう春子は、うっかりすると足もとをすくわれかねない。極端な例をあげれば、ゼータク三昧で人生を謳歌しすぎて、民衆につきあげをくらったマリー・アントワネットみたいに。春子って、素直で前向きすぎて、まわりが見えていなかったり、少しだけ人の痛みがわからなかったりしてしまう。そこに気をつけて生きるべき。
夏の女は強い役をやる時のアンジェリーナ・ジョリーみたいに、男をも引っぱっていくようなパワーを持ちながら、ある種の魔性を持っているから、男を惑わし振り回す。じつにカッコいいけど、夏の恋がひと夏で終わる非日常性を孕んでいたりするように、人生もどこか危なっかしい。言うなればカルメンみたいに。だから夏子はともかく地に足をつけて歩きたい。
そして、秋の女と言ってすぐに思い出されるのは、宮沢りえ。独特なたおやかさや癒しの空気で人をしっとり包み込んでしまうから、やっぱり人に愛される。春と秋が過ごしやすく、嫌いな人があまりいないのと同じである。年齢を重ねるほどに、魅力を増していくのが秋の女の特長で、若い頃にいろいろあったからこそ、ちゃんと実のある女になっている。ただ、若い頃から落ち着きはらってしまうと、人生なかなか簡単には動かなくなり、タイミングを大きくはずしてしまうのだろう。
そして、冬の女。たとえば中島美嘉は見事なまでの冬の女で、どこかカゲがあり、体温がないようなクールビューティながら、他のどの季節の女よりも強烈なインパクトを放っている。西太后とかエカテリーナ2世とか、氷のように冷徹と評された歴史上の女は多いが、みんな心のうちは火のように熱かった。それなりにみんな波瀾万丈。もちろん、春のように現れて、夏のように情熱的に恋に生き、また仕事に体当たりし、秋のように円熟して、今は冬のように凛とした孤高の存在としてリスペクトされている、たとえばカトリーヌ・ドヌーブみたいな生き方っていうものもあるけれど。そしてもっと曖昧に、春とも夏とも秋とも冬ともつかない生き方をすることだって、もちろんできるけれど、一度会ったら忘れられなくなる印象の強さや、人の五感に響き渡るような美しい個性を放つのは、自分の季節を生き生きとまざまざと生きる女。存在の力強さを持ちたいなら、やっぱりどれかの季節をなぞって生きたい。
さあ、あなたの命はどの季節と呼応しているのだろう。季節を感じさせる女は、それだけで美しい。存在自体がドラマチック。ともかく今日から意識する。自分はどの季節を生きる宿命なのかを。
東西南北だって女は分類できてしまう
春夏秋冬の女分類……そのままそれは、東西南北にも当てはまる。東が春、西は秋で、南は夏、北は冬、というように……。女の体のどこかに磁石がついていて、それぞれの方向に引っ張られているように、女はみんな自分の方角を持っている。
風水だって、方位をひとつの手掛かりとし、生気が集中する所に生活空間を置こうという考え方。方角がある種の磁場となっているわけで、人がそれぞれ無意識にいずれかの方角に引っ張られていても、不思議じゃない。実際に風水をひもとくと、自分自身にとって重要な方角があるのは確か。家の中の自分の居場所はそれにのっとっていたほうが幸せがやって来る的な提案も。
ちなみに自分の場合はそれが南だった。で、確かに妙に夏が好きだったりして、南はじつにピンとくる。自分に合った場所も時間もあるんだと、そこで気づくわけである。さらに言うならば、四季が一年の時の流れを示すものならば、一日の時間の経過にも当てはめられる。朝は春、昼は夏、夕暮れは秋、夜は冬……。ここにもみんな、どれかに当てはまっているはずなのだ。つまり、その時間帯に一日におけるいちばん重要な作業を当て込むと、すべてがスムーズに行くということ。何だか一見こじつけのようだが、これらの4分類、どれをとっても人間が地球に宿命づけられたもののような気がする。流行の脳内メーカーで遊んでいるより、自分がハッキリ見えてくるのは確かなのだ。
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23