
人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。
自分自身に”辛さ”を噛みしめる時間を与えない工夫をすること
グレン・クローズの怪演が話題になった『危険な情事』という映画を知っているだろうか?女は“一生の男”と思い、男は“一度きりの女”と思った……というその致命的なズレがもたらす恐いドラマ。衝撃的なシーンはたくさんあるが、いちばん鮮明に脳裏に焼きついたのは、男が妻や友人たちとボーリングで大騒ぎしているその時間に、女はひとり暮らしの部屋でランプの灯をつけたり消したりしていたシーン。それはあくまで女と男の不倫話のはずが、女と妻の対比となり、辛い女と楽しい女があまりに鮮明に浮き彫りにされていて身の毛がよだったのだ。当たり前すぎて逆に見えづらくなっていることを露骨なまでに見せつけたから。
“辛さ”はひとりで神妙に感じ入るもの。つまり、時間をかけるからよけい重い感情となって心に蓄積されて後を引く。逆に“楽しさ”って、楽しいと気づくのは一瞬だが、どうすれば楽しくなるか体で覚えるから、またすぐ反芻できる。つまり環境も手伝って、辛さもクセになり、楽しさもクセになるのだ。その結果、いつも辛い女と、いつも楽しい女を作っていくのである。
ただ本来は“辛さ”も“楽しさ”も、その日が終われば終わるもの。人間の苦楽は、本来その日その日“一日単位”のものだから、楽しいことも長くは続かない代わりに、辛いことも長くは続かないはずだ。だから、辛さをクセにしないためにも、自ら意識して辛い時間を縮めたいのだ。それこそランプの灯をつけたり消したりするヒマを、自分に与えないように工夫したいのだ。
私が毎日お風呂には朝入り、夜は決して入浴しないようになったきっかけも、昔辛いことがあった時、自分に“辛さ”を噛みしめる時間を与えないためだった。“よくお風呂で泣く”という人がいるのも、その環境が心の奥に押し込んだ感情をするする引き出す力を持っているから。水がチャプチャプする音やバスタブという容器に体ごと包まれると、母親の胎内を思い出して泣けてくるから。つまり夜の入浴のたびに“辛さ”がつのってクセになりつつあったから、入浴を朝にした。“いつも辛い女”は、要するに日常生活の中に自ら辛くなる時間をだらだら組み込んでしまってる。これは意識して避けるべきなのだ。
筋肉1ミリで、声の1音2音で人生は変わるのだ
逆に“楽しさ”はクセにしたいわけだけれど、“いつも楽しそうな女”にも、ちゃんと理由がある。“退屈”と“孤独”と“哀しみ”……“辛さ”の3原則が入り込むスキを自分に与えないための予定づくりができているのだ。でもただ単純にスケジュール帳を埋めるだけじゃない。そこには“楽しむセンス”というものが不可欠だ。幸せな人も、要するにセンスがいい。自分を幸せにするセンスってあるのだ。結局楽しさもセンスのなせる業なのである。
あなたはこの先、自分は一体何をしたら楽しいのか?と本気で考えたことがあるだろうか? ただ毎日をこなしているだけの人と、自分を楽しくするためのアイデアを持ってちゃんと実践している人とが明快にいるからだ。ふつうの旅行にも少し飽きてきたから、ダブルデートのように友人カップルとの旅を企画したり、キャンピングカーを借りてあえて無計画の旅に出たり、解説者付きの学ぶ旅に出かけたり、豪華客船で“友だちを作る旅”に出たり、旅の形もじつは無限にあることに気づくのがセンス。何でもいい、自分を感動させるオリジナルの旅を企画できることがセンス。世の中、そういう発想ができる人とできない人に決定的に分かれるのは確かなのだから。
さらに言えば、生活センスを備えていること。一回の食事も、人生において快楽をもたらすものとしては、ピンからキリまで。10分すらかけないのも食事。4時間かかるのも食事。美味しいものをゆっくり笑いながらとる食事ほどの喜びはないわけで、それは100%自分がアレンジできる。どうしたら4時間の食事が実現するのか、それを考えなきゃ。4時間たっぷり長引かせるのがセンス、暮らし方のセンスに優れている証である。
こういう生活センスは“料理のセンス”によく似ていて、有り合わせのものでサササと美味しいものが作れる女は、会話もメニューづくりもムードづくりも巧みだから、4時間などたやすい。でも料理本にかぶりつかないと何も作れない人、いわば生活センスのない人は、それこそマニュアル通りに音楽とキャンドルを用意して、楽しく長引く食卓を意識して用意すべきなのだ。
つまり“辛さ”は“楽しさ”で追い出せるのに、“いつも辛い人”は、自ら食事を10分足らずでつまらなく済ませておいて、生きていくのが辛いと文句を言う人。生活センスに欠けているのに努力もしない人。生きていくのが辛くなって当然だ。物事には必ず理由があるのだから。もちろん食事に限らない。仕事も恋愛も人付き合いも、人が生きていくうえでのテクニックのすべてに当てはまる話である。同じ仕事をしていても、その忙しさをいつも辛がっている人と明らかに楽しんでいる人がいるが、それは人としてのセンスの差に他ならないのだ。
でもそう考えると、やっぱり“辛い人”と“楽しい人”の差は大きく、辛い人が辛さを逃れるのはけっこう難儀なことなのじゃないかと、そう思うはず。でも待ってほしい。突き詰めていくと辛いか楽しいかってそういうことより、究極は毎日の気持ちの作り方ひとつだとも言える。 「つまらなそうな顔をしているから、つまらないことを呼び込んで、ため息をつくから幸せが逃げていくの」子供の頃、母親にしばしばそう注意された。そこで気づいたのが、顔と声と気はすべてリンクしているということ。不機嫌な顔をやめて、意識して明るい声を出すと、いい気を放つ人になる。いい気がいい出来事を呼び込むのは、これはもう人間の生理のひとつで、いつも楽しそうな人は要するに、自らがいい気といいめぐりを生んでいるのだ。ちょっとした顔の表情の違いだけで、声のトーンだけで人生は変わるのである。もっとわかりやすく言えば、いつも辛い人は要はテンションが低いだけ。意識してテンションを上げると、突然いいことが起きる。人間はそこまで単純にできているということなのである。
別にいつも笑顔でいましょうなんて、面倒くさいことは言わない。でも筋肉をほんの少し動かすだけで、不機嫌な顔が機嫌のよさそうな顔になる。不機嫌な顔だと辛そうな声しか出せず、辛い出来事しかもたらさない。筋肉1ミリレベルの動きだけで、声のトーンを1音2音上げるだけで人生は変わるのだ。まさに紙一重なのである。
いつも辛い人は、自らをつまらなくしているのに辛い辛いと世間に対し文句を言っている人
Edited by 齋藤 薫
公開日:2015.04.23