連載 齋藤薫の美容自身stage2

あなたはいつどこで美人に見えるのか?錯覚の魔法を考える

公開日:2015.04.23

人気連載「斎藤薫の美容自身 STAGE2」。 毎月第2水曜日更新。

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1%でも上向きの矢印 それが美人に見える魔法

毎日毎日、顔を合わせていると気づかないレベルの変化も、その人と久しぶりだとハッキリ見えたりする。たとえば3キロ太ったり痩せたりしたことも……。視覚も慣れると麻痺をするのだ。“美人は3日で飽き、ブスは3日で慣れる”のも、それがため。 でもそれだけじゃない。人は会った相手に対して必ず、前に会った時との比較をする。前の時より美しいか醜いか、カンジがいいかカンジ悪いか、元気そうか疲れていそうか、優しそうか冷たそうか、幸せそうか不幸そうか……。従って間があくほどに印象が強烈になり、そういう感想の積み重ねが、相手の“印象”になっていく。だからこそ、女は前よりほんのわずかでも上向きになっていないといけないのだ。前よりもちょっとでも不幸に見えたり、疲れて見えたら、その人の印象は一気に下降、それがそのまま人の記憶に残ってしまうから。極端な話、前に会った時にたまたま“満面の笑み”だった人が、次に会った時は“普通の笑顔”だったらもう「何だか彼女、カンジ悪くなった」と思われる。あるいはまた、“幸せ”そうでなくなった。きっと何か良くないことが起きたんだと、だから性格も悪くなったのに違いないとまで決めつけられる。

人は他者の変化に対し、異様に敏感だ。とりわけ人が後退していく時の心の変化には必要以上に敏感。だから前よりちょっとでも笑顔の量が足りないだけで、不遜と不幸、両方のレッテルを貼られることになる。人として劣化したって。最近“劣化”の二文字を人の噂話にばかり異様に耳にするのも、劣化は年をとることとは違う、人として魂の向きも人生の向きも下向きになって落ちていくことだから。

でも人はなぜそんなに他人の後退や劣化に強い反応を示すのか?人間は生きている以上、より良くなっていかないと人として失格という、揺るがぬ法則を背負わされていて、そういうものへの強いプレッシャーから逆に、断片的にでも他人の後退を見つけると、私は大丈夫、とホッとするというサガを持っているからなのだ。

でも本来、人はちゃんと優しく慈悲深い。具体的に「こんな不幸なことが起きたの」と聞かされたら、心から同情するのだろう。つまり、真の不幸には心を痛めても、“印象の劣化”に世間は手厳しいのだ。そこに下向きの矢印が見えると、不幸になっていく自分を放置している女に見えるから。従って不幸そうに見せるくらいなら、不幸な身の上をぶっちゃけで相談してしまったほうがよほどまし。不幸を詮索させることがいちばんいけない。

では、不幸そうだから劣化して見えるのか、劣化して見えるから不幸そうなのか、どちらが先かはわからない。でも逆に幸せそうな顔は明らかに若く新しく見える。見た目の劣化は、やはり正しい生き方をしていない物的証拠に見えるから「あの人、変わった」と評価をいきなり下げてしまうのだ。そこで失うものは大きい。下向きの矢印が見えると、もう期待も失い、好感度も落とす。今まで築いてきた信頼も失う。だから年を重ねる過程で、シワは増えてもいいが、劣化はいけないのだ。絶対に。

いずれにせよ、女は前に会った時より1%でも多く笑顔を作るべき。それだけで前より眩しく見え、上向きに見える。その上向き感こそ美人に見える錯覚の魔法。もしも前回に会った時より体がくたびれていたり、たまたまメイクやオシャレに手抜きしている日だったら、とっさに満面の笑みを。そして“あなたに会えて心から嬉しい”と思うこと。それだけで顔がキラキラする。上向きの矢印は表情のキラめきと心の向きで作るのだって、覚えていてほしい。

マナー以前の当たり前ができることが、美人に見える新しい魔法

加えて近頃再び目につくのは、正しさゆえの美人。たとえばだけれど、エレベーターで人がたくさん降りる時、誰かが「開」ボタンを押してくれていることに、まったく気づかない人が増え続けてる。だからそんな中で、軽くでも会釈しながら降りる女性がいたら、その人はそれだけで美人に見えるということ。正直、そんなことは公共の場における当然のマナー。いや、マナー以前の常識。でもそういう当たり前のことができない人が多すぎるからこそ、当たり前のことをできる人が美人に見える時代なのである。

いちばん目を惹くのは、レストランや電車の中でうるさく騒ぐ子供をちゃんと叱っている母親。ちょっと淋しい話だけれども、叱るべき場面できちんと子供を叱れない母親が思いの外増えてしまったからこそ、叱る母親が何だか妙に美しく見えるのだ。先日見かけた、“騒ぐ子供を叱っておとなしくさせていた母親”は、ほとんど金髪でつけま3枚づけくらいの遅れてきたギャルふうだったが、ものすごくキュートに見えたことに、逆に驚いたほど。でも本当にそういう新基準が生まれているのだ。

少し前から物議をかもしている“バギーを電車の中でたたむかどうか?”についても、要は“バギーが迷惑になる”と思っている人なら、たたまなくてもOKだと思える。バギーを使って何が悪いの? という人のバギーは邪魔になるということなのだ。同様に、叱る母親の子供は不思議にうるさくない。母親が叱っている限り、うるさく聞こえないのだ。

それはひとえに正しい女の美しさの威力。“美人”には世間が甘い……のは本当だが、今や、美しいというだけではもう許してもらえない。そういう意味で美の基準が根本から変わってきたのだ。つまり美型美人だから許されるのじゃなく、当たり前のことを当たり前にできる“正しいがゆえの美人”ならばこそ、多くのことが許されるというふうに。

あなたがちゃんと美しく見えるかどうか。それはその日に会った人、たまたまあなたを見かけた人が決めることを、ここで再認識してほしい。バッタリ会った人、打ち合わせで会った人、エレベーターや電車の中やレストランでたまたま見かけた人、そういう人たちに今日のあなたはどう映っているのか?それを日々考えながら生きてほしい。“何を着てどういうメイクで出かけるか”だけじゃなく、人は今、誰を美人と思うのか?その場面場面で変わることを知って、反射神経で対応できるようになること。それも立派な美容。当面は、上向きの矢印を持つ女、と当たり前のことができる女。美人とは、そういうことをひと通りクリアした人を言うのである。

女は下向きの矢印を人に見せては絶対にいけない。だからシワは良くても、劣化はいけないのだ。

Edited by 齋藤 薫

公開日:2015.04.23

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